花時計の王子様(下)1/5
先輩が突然いなくなってしまったことに理解が追い付かず、私は座ったまま一点を見つめ、暫くの間動けないでいた。
「おねえちゃん」
百合子の呼ぶ声がした。私は体の向きを変え正面を見る。だがそこには先ほどの知らない成人した女性が立っているだけだった。
「お姉ちゃん?まだ分からないの?」
少しニヤつきながらおどけて話す癖、これは百合子と同じだ。だが前にいる人は私の知らない人。一体全体どうなっているのだろう?
「せんぱい…は?」
ようやく絞り出した声。
「まぁ、この期に及んでまだ彼の心配?」目を見開きながらも彼女は続ける。「大事な人の所へ旅立ったのよ?だから、お姉ちゃんも行かないと」そう言って私の腕を引っ張る。
「ずっと待ってたんだから。早く会いに行ってあげなきゃ」
女の言う言葉が理解できなかった。なんだろう?誰のことを言っているのだろう?
「お姉ちゃんの一番大切な人でしょう?」
彼女に再度思いっきり引っ張られ、その反動で私はベンチから立ち上がる。そして、それを待っていたかのように、地面を彩っていた色彩豊かな花々が躍りだした。
それは息をのむ幻想的な絶景だった。
私は花は上から下に散りゆくものだと思っていた。しかし、ここの花々は下から上へとその花びらを舞い踊らせる。一歩一歩足を前へと進める度に、色鮮やかな花片たちは舞い上がり、私たち二人の体は優しい匂いを放つそれらに包まれるのだった。
「ずっと言おう言おうって思ってて言えなかったことがあるの」無数の花びらたちによって、すっぽりと隠れてしまった女性がそう言う。「花時計の王子様って、私が命名したってずっと勘違いしていたみたいだけど、私じゃないからね」
宙を舞う数えきれないほどの花びらたちの隙間から見える女性の身長は、見間違いだろうか?少しずつ縮み、低くなっていっている気がする。
「ずっと居候って女の子ばっかりだったでしょ?でもお父さんちょっと寂しかったみたいで…。身元がしっかりしている男性を始めて迎え入れた日、覚えてる?」
記憶を遡っていく。それは不思議な感覚のものだった。途切れ途切れではあるが、シャボン玉のように少しずつ記憶が朧気に浮かんで蘇ってくる。
「私まだ小学生だったけど衝撃だったのよ?その人を迎えに行ったお姉ちゃんが帰ってきた時、あまりにキレイな乙女の顔をしていたんだから」
舞い踊っていた花びらたちの数が少しずつ減っていき、目の前の女性の姿が少しづつと確認できるようになってくる。
「でも、その人と性格はあんまり合わなかったみたいで、せっかく女らしく綺麗になっていたのにさ、お姉ちゃんってば数日もすればすっかり元通りになってたんだから。すごく残念だったの、今でもしっかり覚えているんだから…」
ああ、思い出した。
そうよ、私があの人に名付けたの。なのになんで今の今まで忘れていたのだろう。
「本当にあの日のお姉ちゃんは、お世辞抜きで心から綺麗だったわ。一番印象的だったのが、『どんな人だった?』って私が聞いたとき、まるで林檎みたいに顔を赤らめて『まるで花時計の王子様みたいだった』って夢見がちな声で答えてさ…。私、お姉ちゃんにドキッとしちゃったんだから」
もう舞っていた花びらはすっかりなくなっていた。先ほどまでの色鮮やかに地面を彩っていた花は今ではたった一色の色を放っている。
そして、目の前には記憶に真新しい、中学生になったばかりの百合子が立っていた。
「ほら、本物の王子様に挨拶してきなさい」
百合子はそう言い終えると、私の背中をパンっと力強く叩く。私は背中をさすりながら、百合子の視線を辿った。
そこには、薄紅色の絨毯の奥に聳え立つ時計台の麓に、一人の男性が背中を預けて立っていた。
本物の花時計の王子様。
私の夫、光一さんだった。