花時計の王子様(中)2/4
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あれは年越し後、梅子と別れてからすぐの事だった。
彼女と一緒にいると自分の存在が肯定され、息ができる。自分の絵が好きだと言う彼女の笑顔に、また描いて欲しいと願う彼女の上目遣いに、進は毎度のごとく鼓動を高鳴らせ、生きている実感を感じていた。そしてまた、彼女の一言一言に、進が忘れていたかつての『芸術』への思いを再度呼び起こされ、自分の閉じ込めていた感情がふつふつとあふれ出てきて、胸が熱くなる。
本当は何も諦めたくなかった。まだまだ絵を描きたかったし、自分の想いをキャンパスいっぱいに表現もしたかった。決して望まれない存在なはずなのに、まだ見ぬ”未来”を思い描きたくなってしまった。
父は年末は集金の取り立てで忙しい。それは毎年恒例のことだった。それに、何があろうと、どんな時であろうと、進のことを空気のように扱い、存在そのものを無視し、ないものとして生活をしていた。だから、今更進が何をしようが、父は自分に関心も興味も持つことは無いだろう、そう高を括っていた。
だから驚愕した。人気のない冷たい無人の家に帰るはずだったのに、見慣れた我が家に不気味な明かりが灯っていたことに…。そして中からは居るはずのないの父の怒号が外まで響いていたことに…。
何事かと、彼の逆鱗に触れぬよう、息を潜めて彼のいる部屋へと忍び足で向かう。父の声を聞くに、どうやら勝手をしてしまった奉公人の一人を叱りつけているようであった。
- こんな年明け早々呼び出されて気の毒に…
岡田家の雇われ奉公人は、基本お盆などの行事の際には主人より数日の休みを与えられる。正月の三が日も同様であった。よほどの忙しい家でなければ、他でもそうではないか、とは思う。怒られている奉公人はきっと何かとんでもないことをやらかしてしまったのだろう。でなければこんな年明け早々、加えてこんな夜中にわざわざ我が家に呼びつけられたりなんかしない。
叱られる人に可哀想だと憐れむ心を持ったものの、自分が助け舟をだしてやることも、口を挟むこともしなかった。なぜって?そんなことは火を見るより明らかだからだ。もし、嫌われている自分なんかが何か意見でもしたら、絶対に父の怒り火に油を注ぐことになるだけなのだから。
進は軽くため息を吐き、再度息を潜めて忍び足でその場から立ち去ろうとする。もし、クビにでもなったら知り合いの家を次の奉公先として紹介してあげよう、そんなことを呑気に思いながら。
「全て私の一存です。弁解の余地もございません」
だが、謝る奉公人の声を聞いた途端、部屋へと戻る足をとめた。そして踵を返し、二人のいる部屋へと駆け足で戻った。
- いつだ?いつばれたんだ?
冷や汗が額ににじみ出る。声の主の無事と、自分の今後の幾末に、不安で胸がぎゅっと押しつぶされそうになる。
父とは顔も合わしたくなかった。だが、怒られている奉公人を庇わずにはいられなかった。父の怒号を止めさせたかった。だって彼は悪くないのだ。悪いのは、元凶なのは、自分なのだから。
そう、怒られていた奉公人は、何も問わずにただ黙って、藝大へと出願届を出す際に手伝ってくれた、たった一人の進の協力者だったのだから。