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花時計の王子様(中)1/4

「せんぱい…」


 彼を目にした途端にこれまでの記憶が滝のように頭の中へと流れ込んできた。あれほど会いたかった人が目の前にいる。喜ばしいことなのだが、私の落とした声は感情とは裏腹に情けないほど小さいものだった。伝えたいこと、言いたいこと、聞きたいこと、脳内をたくさんの情報が駆け巡り、既に一杯一杯の状態の私は大変に混乱していた。


 次に結ぶ言葉が出てこず、金魚のように口をパクパクと開閉しているだけ。だが先輩は優しい眼差しを向けて「少し落ち着こう?」と呟いて頭をなでてくれる。彼に触れられたところがみるみる熱を帯びてきた。自分が自分でないみたいだ。兎に角暑くて恥ずかしい。


 「あっちのベンチまで」


 そう言って私の前を歩きながら、振り返ることなくその場まで手引きする。私たちの手は決して繋がれることはなかった。だが私はよかった、と胸を撫でおろす。きっと今の私は頬をリンゴのように真っ赤に染めて、情けない顔をしているに違いなかった。それに、手のひらだって尋常ではないくらい汗で湿っていたのだから。


 先輩に案内されるがまま、大きな木の陰に半分隠れている石の長椅子に腰掛け、二人で目の前の花時計を眺めていた。以前の時と同じだわ…、と戻った記憶の一部を辿り少し懐かしむ。


 私たちは暫くお互い黙ったまま。だがこの沈黙は決して苦になるものではなく、穏やかなものだった。

 

 「俺から話をはじめていいか?」二人の長い沈黙を破ったのは彼からだった。「あの日、君をずっと待っていたんだ。でも、君は来なかった。激しく雨も降っていたし、仕方がないと言えば仕方がなかったんだけど…」


 ふと首をかしげる。自転車に乗って彼に逢いに行こうとしていたことは何となくだが思い出していた。しかしながら、大きな音の後からの記憶がすっぽりと抜けていた。最終的にどうなったのか、逢えたかのかどうかは、どうしても思い出せなかった。


 「一、二時間くらいは待ってたんだ。でも、それ以上は俺も待てなかった。ごめん…」彼は言葉を選びながら続ける。「君を信じていなかったわけじゃない。ただ、あの時の俺には余裕がなくて…。あれ以上は自分の計画の為にも君を待てなかった。本当にそれだけなんだ…。もっと違う方法で君と連絡を取り合ってた方がよかった。後悔先に立たずとはこのことかと思ったよ」


 彼は私の方を一瞥もせず、花時計をただただ見つめて一気に話す。


 「でも俺は…、あの日、あの時に俺たちが再開することができなくて良かったと、今になってようやくそう思えるようになったんだ…」


 - コノヒトハナニヲイッテイルノ?


 頭の中が疑問符で埋め尽くされる。会えなくて良かった?それは一体何を意味しているのだろう。


 「あの日から暫くして、俺も遠くの街へ行った後に…。その時ようやく人伝ひとづてに君があんなことになっていると聞いたんだ。あの時ほど激しく後悔をしたことも、自己嫌悪に陥ったことも、涙を流したこともなかったよ。会えなくても、何年も君のことを思い続けていたし、思い出さない日なんてなかった。だけど…、だけど…」


 この先の言葉を私は聞きたくなかった。嫌な予感がしたから。そして、この胸騒ぎを受け入れられる心の準備は整ってもいなかったから。


 「最終的には…、こんなにも時間がかかってしまったけれども、こうしてお互い運命の人と結ばれたんだ。俺は本当によかったと思っている。結果オーライ…かな?少し爺くさいか…ごめん」


 ハハと笑う先輩の声がどこか遠くの、他人事のように聞こえる。ガツンと何か大きなもので後頭部を殴られた気がした。私の恋焦がれた人は、私ではない他の人と結ばれ、そしてその人こそが運命の人だったのだと…。彼はそんな残酷な話を私に優しくはにかんだ笑顔でそう伝えてくるのだ。彼のこんな顔を私は今まで見たことはなかった。嫉妬のようなもやもやした感情が私の心を支配する。


 - 一体それならば私は何のために貴方に逢うためだけに走ってきたのだろう?私の行動は全て無駄だったということだろうか?それとも…


 「君と出会えて愛を知った。君があのどん底の白黒の世界から俺を救い出してくれたんだ。本当に感謝しきれないほどに感謝しているんだ…。だから、どうしてもこれだけは自分の口から伝えたくて…、この場所で、君が来るのを今日というこの日までずっとずっと待っていたんだ」


 彼の黒ではない髪がなびく。それは陽に当たり、少し金色の輝きを放っている。彼の目が私を見つめる。この空色の美しい瞳が大好きだった。本当に本当に大好きだった。


 私はぽっかりと欠けてしまった記憶に深く絶望し、目の前の先輩を見つめる。涙で溢れた瞳から見えたあなたは滲んでいた。大好きだったのに。知らぬ間に、訳もわからぬ間に振られてしまったのだ。記憶がまだ完全に戻っていない自分自身が憎い、辛い、苦しい。心が悲鳴を上げていた。




 「そういえば、君はあの日、俺と親父の間で何があったのか知らなかったよね?」


 そう言って私の苦しみに気が付くことなく、彼はあの事件のことを口にする。



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