花時計の王子様(上)2/3
既視感のある女性だった。艶やかな胸元まである黒い髪も、裾の長い撫子色のスカートも、穏やかに微笑むその笑顔も。
心は目の前の彼女を知っている。でも”私”には分からない。どう言葉を返すべきなのか迷ってしまい、そのまま俯いてしまった。
「ねえ、梅子?もういいのではないかしら?」
優しい声で何かを諭すように私に話しかける。その声にどこか懐かしさを思い出し、心に温かいものが染み渡る。
- 梅子…
その名に何故か親近感を抱く。”私”はその名を知っている。何かを答えようと再度顔を上げた時、目の前の光景に衝撃を受け、浮かんだ言葉が引っ込んでしまった。そう、つい数秒前までは遠くまで緑の草原が続いていたはずだ。だが、今実際に目の前に広がっているものは、色鮮やかな花が散りばめられた花畑であった。それはまるで楽園のようでもある。
「えっと、あの…。えっと、どちら様ですか?」
ようやく絞り出した言葉は、枕詞も何もない、ただの直球の問いかけだった。聞いてから、失礼だったかもしれないと後悔した。
「ふふふ、しょうがないわね。そうよね…」それにも関わらず、彼女の声は少し楽しそうだ。私はその反応に驚いて少し首をかしげる。「まあ、私が
”誰か”なんて今はさほど大きな問題ではないのよ?ねえ、梅子、貴女はあちらに戻ってどうしたいの?」
何を言っているのだろう?彼女の言葉の意図が読み取れない。
「そうね、分からないわよね。でも、貴女は十分にこの世を全うしたと思っているの。もう自分をそんなに痛めつけて、叶わない十字架を背負って、そんな傷つくことをする必要はないのではないかしら?もう楽になっても誰も文句は言わないわよ?」
何に対して言われているのか、私はまだ混乱の中にいた。だが、それは誰かに私が言われたかった言葉なのかもしれない。引っ込んでいたはずなのに…。気が付くと一筋の涙が私の頬を静かに伝っていた。
「あなたは十分に自戒したわよ?もう楽になってもいいのではなくて…?」
「ねえ、一体なにを言って…」
「皆待っているわ。あなたは十分すぎるほど後悔し、反省し、自分を律したのよ?」彼女の周りがキラキラと光り輝く。「自分を許してあげなさい。過去には戻れないのだから」
彼女の周りの光は次第に二つの人の影へと変形していく。大きいものと小さいものに。
「もう、こちら側にきても誰もあなたを責めないわ」
彼女が何を私に伝えたいのか、本当の”意味”は分からない。だけど、彼女の言葉に心が洗われ、清々しくなるのを感じる。そして、その言葉に導かれるように、一歩一歩女性の方へと歩みを進める。
- なんだ、もういいんだ…
すっと心が軽くなった。軽やかな足取りで、小川を裸足で渡る。川底には小さな小石が無数にあったのだが、それらは綿菓子のように柔らかく、全く痛みを感じない。まるで、快く私を風光明媚な花園へと迎え入れてくれているようでもあった。
後ろからはこの穏やかな景色に似合わず、悲痛な叫び声が聞こえてくるような気がする。でも、そんなこともう関係ない…。私は後ろ髪をひかれることなく、小川を渡りきった。
目の前の不思議な女性はというと、両隣の光の粒のように、優しい煌めきのそれへと姿を変えていっている。そして、私の体はそんな三人分の暖かな光に抱き込まれるように包まれ、懐かしい声に迎え入れられる。
「オカエリ。ヨクガンバッタネ、ウメコ」
それは、低くて少し嗄れ声だった。
大好きな 父 の声によく似ていた。




