花時計の王子様(上)1/3
暖かな優しい陽差しが目元に当たり、眩しさで目を覚ました。その光から目元を守るように、左手を上へとそっとかざす。
- ここはどこだろう?
少し頭が重たい。だが、吐き気はないし、体のどこかに痛みが走っているわけでもなかった。頭重感に少し顔を歪ませながらも、先ほどの問いに対する答えを探そうと、再度目を瞑り記憶を遡りはじめる。ほんのつい少し前まで、何か大きくて恐怖を感じさせるようなものに追われていたような…、そんな気がする。根拠は全くないのだが、そう感じているのだから仕方がない。だが、どれだけ記憶を辿ろうと、どれだけ深く考え込もうと、頭の中は白い靄がかかったような状態で、答えは何も浮かばない。そして絶望することになる。私自身が一体何者なのか、誰なのか、何も思い出すことができなかったのだから。
そう、一切の記憶という記憶がバッサリと私の頭の中から抜け落ちていた。
恐怖を覚え、両手で頭を抱えた。地面にあった手を動かしたことで、その下に埋もれていた草木が背伸びをし、植物の青い香りが鼻元まで漂ってくる。それらは、少し懐かしい不思議な優しい土の香りでもあった。
どうやら私は芝生の上に寝転がっていたようだ。周りに何があるのか、辺りを確認しようとゆっくりと上半身を持ち上げた時、自分の目に突然飛び込んできた壮大な景色に息をのんだ。そこには、瑞々しい色をした緑の平原が見渡す限り一面に続いていたのだから。
淡い色をした青い空に、暖かな優しい陽差し、そして景色いっぱいに広がる緑の草原。まるで夢の中に迷い込んだかのようだった。
何かに呼ばれている、そんな気がした。立ち上がり、遠くに見える遥か彼方の緑の地平線へと歩み始めることにする。そっちの方角に何かがあるとか、誰かが待っているとか、そんなことを知っていたわけでも、期待していたわけでもない。ただ、それは本能だった。私はある場所へと向かわねばならぬ、そんな使命感が急に心の奥底から湧き出て来たのである。
ふかふかの新緑の芝生の上を軽やかに歩きながら、再度自分のことを思い出そうと考えを巡らせていた。
- 私は誰だろう?
分からない。
- ここはどこだろう?
検討もつかない。
- 何故ここにいるのだろう?
”なに”かに追いかけられていた、という焦りのような感情はある。
- なぜ追われていたのだろう?
分からない。でも誰かに逢いに行こうとしていて、それを阻まれて…。
- 誰に逢いに行こうとしていたのだろう?
一番愛おしい人。その”誰か”を切望していた。その感情はまだ心の中で燻ぶっている。
真っ白な記憶の中を、それでも懸命に何度も何度も回想しようとする。もう少しで何か思い起こせそうな、そんな気がするのだ。だが、小さな違和感が頭の中でそれを阻止する。それでも私は諦めることなく、何度も何度もその先の奥にある記憶を呼びおこそうと追憶するのだった。
パシャッ
自分の失われた記憶ばかりに気を取られていた為、周りにまで注意を払っていなかった。足元にふれる心地よい冷たさに我に返る。目線を下へと下ろすと、そこには細長く、幅の狭い、いささ川が流れていた。裸足の片足がその川に漬かっている。どうやらこの細流へと足を滑らせたようだ。
優しい陽差しに照らされたその小川の水面はキラキラと反射しており、底にある小石が全て綺麗に確認できるほど、透き通っているものであった。左右を確認する。平原の中にひっそりとあるいささ川。どこからきてどこまで向かっているのか、自分の目で追うことは難しいものだった。
腰を下ろして小川の水をすくってみる。ひんやりとした柔らかな手触りが、不気味に打っていた鼓動の音を収めてくれた。ああ、何ということだろう。なぜだかこの場所からとても離れ難いのだ。何度も何度も子供のように水をすくって遊んでいると、再度後ろから誰かに呼ばれた気がした。驚いて後ろを振り返る。だがそこには永遠と続く緑の地平線しかない。頭をひねる。引き返した方がよいのか、と。私は細流から手を出し、重たい腰を上げ、その場から去ろうとした。
「今回は二日続けてきたのね?珍しいじゃない」
声が聞こえていたのはまた後ろからだった。再度振り返ると、誰もいなかったはずの小川の向こう側に、滑らかな表面をしたねずみ色の少し大きめの石の上で、一人女性が腰かけてこちらに手を振っていた。