三月の別れ 3/3
ーー待ち合わせまであと1時間。
家に帰ってきた私は、部屋の奥に閉まっていた亡き母の化粧道具を引っ張り出していた。軽く化粧をして、綺麗になった姿で先輩と再会したかったから。だが化粧道具は意外と多いもので、扱い方が分からない。どうも上手にできているものなのか分からなかったため、恥を忍んで家に偶偶いた孝子ちゃんにお化粧の仕方を教授してもらうことにした。滅多に化粧などしない私の相談に孝子ちゃんは驚いてはいたものの、快く承諾してくれた。
可愛く着飾って私はどんな気持ちで彼に会いに行こうとしていたのだろうか?今となってはきちんと思い出せない。新たな自分でこの家から、この町から、誰も知らないまだ見ぬ場所へと旅立ちたかった。きっとただただそれだけの幼稚な考えだったのだろうと思う。
その後、私は孝子ちゃんに何度も頭を下げながら化粧を施してくれたことへの感謝の意を伝え、前日に既に用意していた大きな荷物に白い花をそっと飾り付けて、誰にも気が付かれないように忍び足で部屋からでた。バスに乗ってあの公園へと向かうにしてもまだまだ十分に時間はあった。だが、私は怖かったのだ。もし、先輩とすれ違って会えなかったら?もし何か事故にでも巻き込まれて先輩との約束に遅れてしまったら?負の感情ばかりが胸の中を支配する。空は今にも泣きだしそうだ。時間に余裕をもって向かおう…。こうして私は振り返らずに逃げるようにして家から出た。
「乗れよ」
思わず悲鳴を上げそうになった。ゆっくりと左後ろをみると、そこにはまるで私を待っていたかのように、光一さんが自転車に跨って玄関の外で待機していたのだ。ハンドルに両肘をついてこちらをじっと見つめている。私は彼の全てを見透かしたようなこの目が苦手だった。つい威圧感を感じてしまい、目を逸らしてしまう。
「送ってくよ」私の気持ちを汲んでくれたのか、次に発した彼の声は初めて耳にするとても優しいものだった。
「一人で…バスで行くから…」
「行きながらでいい。話したいことがあるんだ」私の声にそう被せる。「大丈夫。誰にも何も言わないから。安心しろよ」
彼の提案に少し構えはしたものの、彼の話したいこと、に興味が湧いた。恐る恐る自転車の後ろに乗っかり、素直に彼に送ってもらうことにした。
「しっかり掴まれよ?」
彼と二人乗りするのはあの夏の日々以来のかなり久しい事である。光一さんの広い背中のおかげで、冷たい風を頬に感じることはなかった。そういえば、以前は暖かな季節の時にこうして後ろに乗っていたな、と思い出す。あの時は心地良い風を感じていたのだっけ?今ではその時と打って変わって、はぁっと落とした私のため息は白く濁っていた。
順調に景色が変わっていく。私一人分の体重は負荷にならないとでも言わんかの如く、軽やかに自転車は前へと進む。なのに、いくら待てども光一さんから私に話しかけてくる様子は一向にない。私は不安を感じながらも、こちらから問いただすことはついにしなかった。
一体どのくらいもの間、お互いに言葉を発することはなく無言で走っていたのだろう?あともう少しで公園へと到着するかという頃、ふいに頬に冷たい雫が落ちて来た。雨だ。折角の化粧が落ちてしまう。私は少し焦りを覚え、つい雨を避けることばかりを考え、光一さんの背中に顔をぴたりとつけてしまった。
私の急な行動が彼を驚かせてしまったのだろう。肩が大きくドキリと動いた。その後、ごにょごにょと、何かを私に伝えようと話しかけてきていることが背中越しの振動で分かった。だが、全く聞こえない。
「なんて?」私は背中から顔を離して、彼の耳元へ顔を近づけ優しく尋ねた。私の吐息が彼の首元にあたり、光一さんの背中が再度少しだけピクリと跳ね上がった。
「駆け落ちするつもりなんだろ?」
「え?」
雨音が激しくなってきた。だが、彼の声は今度は明瞭に確実に私の耳に届いた。急な彼の核心をつく問いに激しく動揺してしまい、今度は私の体がピクリと跳ね上がる。
「違うのか?そんなに大きな荷物を背負ってるから、そうなのかと思った」
「それは…」
「図星なんだろ?」私は途端に恥ずかしくなってしまい、彼の背中に再度顔をうずめなおし、軽く頷く。
彼の固唾の飲む音が再度背中越しに響いた。
「行ってほしくないんだ」
時が止まった気がした。突然の彼が吐露した本心に驚き、私は言葉を失ってしまう。
- え?光一さん…、今なんて?
「でも、俺だって好きな人の幸せを願うくらいの器はあるんだ。何かあったら、俺が娶ってやるから…。いつでも戻って来いよ」
彼の告白についに私の思考は完全に停止してしまう。それでも、何か言葉を紡がなければ…、との変な使命感が私の胸の中に巡り、なんとか言葉を発そうと口を開いた時だった。
「おい、よけろ!!!!!」
どこからか誰かの太い怒声が聞こえた。と共に、たくさんの音が耳に入ってきた。それらはとてもとても、大きな大きな音だった。タイヤのスキール、車のクラクション、金属同士が擦れあうノイズ、そして人の悲鳴。全てがスローモーションに動き出す。気が付くと私は空を飛んでいた。目の前に広がるのは暗い空ではなかった。そこには透き通る青空があった。先ほどまでの冷たい雨の代わりに、温かな優しい陽光が私に降り注いでいる。
- ああ、このまま飛んで彼のもとへ向かっていきたい…。
「梅子!」
遠くで光一さんの叫ぶ声が耳に入ってきた。そしてその声で我に返ったかのように、私の宙に浮かんだ体がゆっくりと重力に引き寄せられ、元の世界へと連れ戻されていく。たくさんの人たちの声がする。その中に光一さんの痛々しい声が混じっていたような気がした。
「私は大丈夫…」
そう伝えようと横を向いた私の目に飛び込んできたのは、真っ赤に色づいた花だった。
ようやく書き終えた!!!
次から『花時計の王子様』→『エピローグ』で完結です。




