移動
ツンとした独特の匂いが、暗闇から私を解放した。目の先には白い上品なレースが施されてある。軽い、けれども全く不快ではない微かな振動が私に伝わってきた。
ふと左を見ると景色が流れるように巡る巡る変わっていたため、車の中にいると気がつくまで時間がかからなかった。しかし、見たことのない風景ばかりである。全体的に白っぽい建物が多いのだが、それらは光を浴びて輝きを増していた。目が痛くなってくる。しょうがないので、道路へと視線を落とすことにした。不思議なことに、ほとんど土埃がたっていなかった。そのため、道路わきの美しい新緑たちを鮮明に確認することができた。今、自分がいるのは慣れしたんだ街ではなく、異国の地であるとはなんとなく理解できた。だが、なぜ私がここにいるのかは全くもって理解できなかった。
右を見ると先程のご婦人が鉄製の少し分厚い下敷きをトントンっと軽く弾いていた。彼女はこちらを一瞥もせず、ただそれを一心不乱に触っている。何かの内職だろうか?ふと、脳裏に亡き母が浮かんできた。母も時間があれば夕食後によく内職をしていた。しかし、何をしていたのかあの頃の私はまだまだ幼すぎたため、よく覚えていない。
「あ、目が覚めたの?」婦人が私の視線を感じ取ったのか、一度こちらを横目で確認し聞く。「家に向かってるから、もう暴れないでね」優しく言っているのは分かるが、その言葉の奥底には棘があった。あれ?何故だろう。私には分かる。見知らぬ女性、でも彼女は少し怒っている。
私は不思議に思いながらも、そういえば、とあることを思い出し、首元を探る。太めの紐が首にかかっており、それをたぐり寄せる。記憶は朧気ではあったが、先程の小さな白い部屋にいた時、若い方の男性が私の荷物を確認させて、と尋ね持ち物を調べられたのだった。私はその時、何も持ってはいなかった。彼は沈んだ表情で、次に名前や住所を聞いてきた。が、何も分からず、答えることはできなかった。ただ、ふと私の首元をみてこの紐を発見したとき、彼はあからさまに安堵した表情を浮かべた。そしてそれを手に取り、年配の男性と何かを確認していたのだった。
そんな記憶を思い出しながら、私も同じように全ての紐を手繰る。すると、そこには小さなお守りが付いてあった。はじめてみるが、使い古されていたようで手垢で黒く汚れており、もとの色が赤色であると辛うじてわかる程度のものであった。どこのお守りなのだろう。私は疑問に思いそのお守りを入念に確認しようとする。お守りにしては少し分厚く、そして硬い。何か文字が書いてあるように思われたのだが、自分の顔近くにお守りを近づければ近づけるほど、それはぼやけてきて、ただの鈍い光を発した赤黒いだけの物体のようにしか見えなかった。私は頭を抱える、これがなぜ人を安心させるものだったのだろう。もうとっくに頭の痛みは無くなっていた。だが、このお守りを見ながら何かを思い出そうとすると、頭がドクドクと嫌な脈を打ち、私の思考の行方を阻んだ。
そんな私をみて、淑女は眉間にしわを寄せ「大事なものだから無くさないでよ」と強めの口調で言ってきた。
私は心の中で、この女性をもう怒らせないほうがいいな、と思いお守りを再度自分の服の中にしまうことにし、代わりに外の景色を眺める。やはりこの乗り物は静かだな、とぼんやりと思っていた。
しばらくすると車が停車し、お金を要求された。かなりの高額な値段に私は目を見開いたのだが、隣の婦人は黙ってお金を支払っていた。
「ついたわよ、さあ行きましょう」
私は未だ不安と疑念を胸いっぱいに抱きながらも、彼女の声に従い、美しい漆黒の車から外へでた。
※ネタバレになるので詳しくは書きませんが、
お守りを首にかける行為は危険ですので、
絶対に真似はしないでください。