湯灌の儀
用意されたオムツを目の前にして、最初私は絶句した。理解できず、私の頭ではこの状況を処理しきれなかった。天国ではみんなオムツをはくのかしら?少し考える。確かに天使は皆んな履いてるわ、と暫くたってから納得した。だが、私は到底受け入れられなかった。ご婦人にそれだけはどうしても嫌だと拒否を伝えたが、彼女は怒る。「ごねてないで早く履いてよ」
私は御手洗いから逃げた。すぐ目の前の玄関から外へ出ようとする。
丁度その時、タイミングよくチャイムが鳴った。
ご婦人は私を宥めて、玄関をあける。そこには、60代くらいの皺が目立つ少しふくよかな女性が立っていた。
「こんにちは。ヘンパーノ・鈴木です」そう名乗った。「あら、またバトル中でしたか?」彼女の微笑みは何故か私の心を落ち着かせる。
「恥ずかしいですわ」ご婦人は肩をすくめる。「どうぞお入り下さい。さ、行くわよ」
ご婦人は私を少し強く引っ張る。こうして再度3人でリビングに戻ることになった。
リビングに着くと、ご婦人は先ほど来た女性と何やらボソボソ話し合っていた。私は話がよく聞き取れなかったので、ただ、目の前に生けてあるデュランという名の花を眺めていた。
数分後、女性が私に声をかける。「植田さん、今日はお風呂に入りましょうね」
知らない女性とお風呂に入るのは気が引けた。だが、それがさも当たり前のように笑顔で微笑みかけてくるのだから、つい頷いてしまう。そう言えば、自分の母が亡くなった時も湯灌の儀式で彼女の身体を清めたな、と当時の事を思い出す。もしかしたら、これは死者の儀式の一部なのかもしれない。重い足取りで彼女の後に続いてお風呂場へ向かった。
彼女の手先はまるで癒しのようだった。優しく、そして丁寧に体や頭を洗ってくれた。急な新しい環境に、私は知らず知らずの間に気を張り詰めていたのだろう。彼女の柔らかい手さばきと暖かなお湯の温度に、緊張がゆっくりと溶けていくのが分かった。そして、すぐに眠気が代わりに襲ってくる。だが、お風呂で寝るわけにはいかない。私は気を紛らわすため、彼女に声をかけることにした。
「ヘンパーノさんて、珍しい名前ね。どちらの国の方なの?」最初に感じた疑問を問う。
「鈴木とお呼びください。私は生粋の日本人です」困った顔をして彼女は答える。
いきなり不躾だったかしら?私は少し気が落ちた。
「鈴木さん、ごめんなさいね」
「謝られる事なんて何もありませんよ」彼女は柔らかな声で微笑んだ。
お風呂から上がると、気分がさっぱりし、再度眠気が襲いかかってきた。先ほどよりもそれは強くなっている。単純な自分の体に思わず苦笑した。
「鈴木さん、ありがとう。凄く気持ちが良かったわ」
「とんでもございません。今日はもうお休みになられますか?」
長い間気を張っていた私の心は、確かに休息を求めていた。
「そうね、少し休もうかしら」
「それでは案内しますね」
私はいつの間にか服を着ていた。会話をしながら服を着せて貰っていたらしい。彼女の手際の良さに唸らせられた。
彼女は一体何者なのだろう?いつの間にか、オムツを履かせられていたのだが、私がそれに気がつくことはなかった。