六月の初恋 3/3
鼓動が激しく胸をうち、少し息辛さを感じる。
「酷い雨だね」彼はまた外へと視線を移し、そう呟いた。「皆んな帰ったと思ってたよ」
私は胸の鼓動に静まってと願いを込めながら、「先輩はお帰りならないのですか?」と聞いた。
「僕は迎えの車を待っていて、」そこで一度考える。「そっか、君は今日も活動があると思ってたのか。何も言わなくてごめん。一年の教室なんか行ったらまたあることないこと言われそうだったし」遠い目でどこかを見ながら辛うじて私に聞こえる声でそう呟いた。
「習慣で来てしまっただけですので…」私はこの二人だけの空気にたえきれなくなり、「もう私も帰りますね」と早口でそう彼に伝える。
再度彼と目が合う。ドキドキと不整脈のように鼓動が変な音をたててうっている。私は自分がおかしくなったような気がして、急いで扉を閉め帰ろうとした。
「待って」彼が私を呼び止める。「君と初めてあった場所、覚えてる?」
なぜ急にそんなことを聞くのだろう。私は不思議に思いながらも、「花時計の前でお会いしました。百合子…、妹が先輩の絵に感動して」と答える。
「あれは、衝撃的だったよ。急にコロッケなんて渡してくるから。驚いた」乾いた笑みを浮かべながら私を見る。「妹さんとの約束だったんだけど…」
「約束ですか?」
「そう、次は彼女を書くって約束。でも、彼女とは全然会えないみたいだから、君を書いていい?」
彼の意図がよく分からなかったが、今の彼を独りにするのは何だが気が引けたため、首を縦に振り了承した。
「ありがとう。本当は人の絵なんてもう描くもんか、って思ってたけど」彼が制服の胸ポケットから何か小さなノートを取り出し、私を見つめる。「今日は何か違うものを書きたい気分だから」
私はいつも座っている席に腰を下ろす。彼の視線に体の奥底が熱を帯びてくる。そんな自分が恥ずかしくなり顔を赤らめた。それでも平然とした態度を保つよう懸命に努力する。が、やはり彼の視線と沈黙が少し辛くて何か話題を探す。「あの花時計の前でもそのノートに絵を書いてましたよね?スケッチブックには書かないのですか?」以前山崎先輩に聞かれたときの違和感だった。彼は岡田先輩の絵を壮大で綺麗だと言っていた。だが、以前も絵を描いていたのは今日と同じ小さなノートであった。壮大という言葉はあまりにも当てはまらない。
「母への手紙に添えるのにはこれくらいの大きさが丁度いいからね」
どのくらい時間がたっただろうか。気がつくと雨が小雨になっていたため、二人で旧校舎を出て正門へ向かった。正門前には車が三台停まっていた。そのうちの一つの車を指し、あれで家まで送る、という彼の提案に丁寧にお断りした。これ以上一緒にいたら心臓が持たないと思ったからだった。
彼は私に一枚紙を丁寧に千切って渡した。それは私の横顔だった。お礼を伝え、一人で帰路につく。一人で帰るのは寂しいといつも感じていたはずなのに、何故か今日は顔がずっとニヤけている。通り過ぎる人が不思議そうに私を見るのが目に入った。私は彼らのそんな視線をよそに、そっと彼から頂いた絵を胸元に抱きしめる。いつもより大きく高鳴っている胸の音が私の体に響き渡った。
帰宅後、百合子に「今日雨すごかったね。あれ?お姉ちゃん、顔赤いよ!風邪?熱?あ、でも熱ないね。もしかして、好きな人が出来たとか?」と揶揄われ、この胸の高鳴りが初恋であると知った。