甘かった、胸がつまった。
ジネットのところで居候を始めて数日が経った。
ジネットは毎日忙しそうだけれど、午前中は何かと涼夏の世話をやいてくれて、似合う服を見繕ってくれたり、化粧品のような小物を次々と教えてくれたり、この世界の文字が読み書きできないと知るや、簡単な勉強をさせてくれたりした。
ジネットは基本的にこの商会で采配を奮っているようだけれど、旦那さんを一度も見かけなかったので尋ねてみたら「あの人は一年のほとんどを買いつけで世界を飛び回ってるから、まだしばらくは帰らないわ」と返ってきた。ジネットも旦那さんも忙しい人なんだと感じながらも、そんな忙しいジネットに自分のことまで世話させてしまうのは非常に申し訳なかった。
だけどジネットは生来世話好きなのか、暇さえ作れば涼夏にかまってくれる。文字の勉強だって、人に任せればいいのをジネット自身で教えてくれるほどだった。
「それで、今日は何をしていたんだい?」
「はい。朝はジネットさんに文字を教えてもらいながら、書き取りの練習をしていました。昼は、自分の世界の勉強です。不格好だけど、ペンもなんとか握れるから」
「涼夏は真面目だね。僕は勉強が大嫌いだったから、素直にすごいと思うよ」
恒例となった魔力タイム。
エヴラールは宣言通り、魔力の供給のため、毎日ボワレー商会の裏手にあるジネットの邸宅まで来ては、ゆっくりとくつろぎながら涼夏とおしゃべりをしてくれた。
真面目に勉強をしているのを褒められた涼夏は嬉しくて、つい頬がゆるんでしまう。
「元の世界に戻った時に、勉強ができなくて泣くのは自分だから。せめて一緒に持ってきた教科くらいは勉強しないとって。……ただ数学とかは、ちんぷんかんぷんですけど」
ソファーで二人並んで手を握りながらおしゃべりしていると、エヴラールが不思議そうに首を傾げた。
「数学? 数学って物好きな人たちがやってる学問だっけ?」
「物好きだとは思いますけど、元の世界では必修科目だったんですよ」
「数学ってよく分からないんだよなぁ。お金の足し引きとかくらいならできるけどさ……どんなことするの?」
興味が出たらしいエヴラールが聞いてきたので、涼夏は魔力を吸うのを一度やめて、教科書の入ったスクールバッグを持ってくる。
その中から数学の教科書を出すと、エヴラールの隣に座り直して、片手だけをエヴラールとつなぎながら、ぴっとりと寄り添って教科書を二人の膝の上に広げた。
「今はこれを勉強してます。三角関数です」
「……ごめん、異世界の言葉だからか呪文にしか見えない」
「大丈夫です、私も呪文にしか見えないです。でもこのページに一番大切な呪文があります」
「本当に呪文があるんだ。数学なのに?」
「はい」
「それはどれだい?」
「これです。サイン・コサイン・タンジェント」
「……短い呪文だね?」
「短いからって舐めてみるとあとから痛い目をみる、大切な呪文ですよ」
「へぇ。数学って怖いね」
「はい、怖いです」
二人で真面目な顔で数学の怖さを語り合う。ふと目があって、どちらからともなく笑ってしまった。
勉強の話だけでは味気ないので、涼夏は数学の教科書を閉じて鞄にしまった。その時に鞄にしまっていたコンビニの袋が邪魔をしたので、一度外に出してから教科書をしまいこむ。
すると今度はコンビニの袋に興味が出たようで、エヴラールが不思議そうに白いビニール袋をまじまじと見ていた。
「涼夏、それに入ってるのは?」
「これですか?」
涼夏は言われるままにビニール袋に入っていたものを取り出す。
出てきたのは三つのグミの袋だ。
果汁系のグミと、ちょっと刺激的な味のグミと、マシュマロみたいにふわふわな食感のグミ。
「これはグミです」
「ぐみ?」
「エヴラールさん、グミを知らない?」
グミの包装を見せながら聞いてみれば、エヴラールはこくりとうなずく。
それを見た涼夏は、少しだけ悪戯心がむくりとわいてしまった。
「グミは私の世界のお菓子です」
「へぇ。お菓子」
「せっかくなので食べてみましょう!」
うきうきと涼夏は膝の上にグミの袋を置くと、まずは果汁系のグミから袋を開けた。
意気揚々と袋を開け始めた涼夏に、エヴラールはふるふると首をふる。
「いや、いいよ。君のだろう? もったいないから自分で食べなよ」
「好きなものは分かち合うのが醍醐味っていうやつなんですよ」
はい、と涼夏はグミを差し出す。
むにむにしていて、くすんだアメジストのようなそれに、エヴラールが戸惑った表情を見せる。
涼夏はそれをパクンっと口に放ると、むぐむぐとグミを噛んだ。
「これは定番のグレープ味です」
「ぐれーぷ?」
「えっと、ぶどう味です」
もう一粒、涼夏がころんと自分の手のひらにグミをのせると、エヴラールがまじまじと観察しだした。
なかなかグミに対する警戒心を解かないエヴラールに、涼夏はグミを摘むと、エヴラールの唇にぴとりとあてた。
「百聞は一見にしかずって言うので。食べて?」
「…………むぐ」
小さく唇を開ければ、涼夏が少々強引に口の中へとグミを入れた。一瞬、唇に手が触れる。エヴラールは赤くなった顔を少しだけ背けて、口元に手を当てながらグミを咀嚼した。
「どうですか?」
にこにこと笑っている涼夏が恨めしい。
たぶん何も考えていないだろう涼夏に振り回されている気がして、エヴラールは少し悔しく思った。
それでもグミを咀嚼していくうちにそんな考えも霧散していく。今まで食べたことのないくにくにとした食感は不思議で、何度噛んでも葡萄の味がする。しかもどこまで噛んで飲み込めばいいのか分からなくて、ぐにぐにと小さくなるまで噛み続けた。
「これは柔らかいのに歯ごたえあるね。すごい不思議な食感だ。食べたことがないや」
「ふふ。それじゃ食べ比べもしましょうか。これはコーラ味のグミです」
「こーら?」
「なんか黒くてパチパチする砂糖じゃない感じの甘い飲み物の味です」
「涼夏の世界には不思議な飲み物があるんだね?」
涼夏が差し出した表面に白くてざらざらしたものがまぶされたグミを、エヴラールはすんなりと食べた。
口元を押さえた。
「〜〜〜!? !? !!?」
「えへへ」
口元を押さえて悶絶するエヴラールに、涼夏がころころと笑う声が聞こえる。
ついつい涙目になったエヴラールが、恨みがましい目で涼夏を見た。
「涼夏、これはなんだい……? 口の中がきゅってした……」
「これ、酸っぱいグミです。噛んでるとコーラの味になるんですが、一口目って酸っぱくて。夜に勉強するときの眠気覚ましにもってこいなんです」
「それ、先に言ってほしかったな……びっくりした……」
「えへへ、すみません」
涼夏はとってもいい笑顔なのでたぶん反省はしていないだろう。珍しく茶目っ気をだしてきた涼夏にあんまり叱ることをしたくなかったエヴラールは、これも可愛い悪戯だと思って許してあげた。
「それじゃあ最後のグミです」
「……それ、さっきと同じで口の中が大変なことにはならないよね?」
「ならないですよ〜。これはあまぁいグミです」
にこにこ笑う涼夏が一粒つまんだグミを差し出すので、エヴラールは胡乱な目を向ける。それでも涼夏はにこにこ笑っているので、仕返しとばかりにエヴラールは涼夏の指先ごとグミを食べてやった。
グミには白い粉がふいていたようで、涼夏の指にも白い粉がついていた。それをぺろっと舐めてやる。
「ひゃうっ」
「ん、すごく、甘い」
「エヴラールさん!? 今、指! 指舐めました!?」
顔を真っ赤にさせて素っ頓狂な声を上げる涼夏に、エヴラールは悪戯めいた表情で笑った。
「さっきの仕返し。ごちそうさま、涼夏。美味しかったよ」
何枚も上手をいくエヴラールに、涼夏は真っ赤になって、金魚のように口をパクパクさせた。
そして美形とはなんとも罪深い生き物だと再認識する。
心臓をなだめるように涼夏がグミを片づけだすと、その様子を見ながら、エヴラールが不意に切なそうに微笑んだ。
「ねぇ、涼夏」
「はい」
「君は、元の世界に戻りたい?」
「何言ってるんですか。戻りたいに決まってます」
スクールバッグにグミをしまいながらそう答えた涼夏は、それまでと違ったエヴラールの声のトーンが気になって顔を上げる。
ソファーにはけぶるような薄氷色の睫毛を切なそうに伏せて、憂いを帯びた海色の瞳をしているエヴラールがいて、涼夏の心臓をきゅっとさせた。
「あのさ、涼夏」
「はい」
エヴラールがそっと涼夏の名前を呼ぶ。
涼夏が静かに返事を返すと、エヴラールは困ったように微笑んだ。
「……もし僕が、この世界にいてほしいと言ったら、君はこの世界を選んでくれる?」
その問いかけに、涼夏は瞠目した。
それから目を閉じて、ゆっくり考える。
きっとエヴラールは、魔力の負担を減らしてくれる涼夏が必要なんだと思う。
だけどそれは、今まで出会えなかっただけで、涼夏じゃなくても代替がきくようなものである気がした。
現に涼夏を召喚したフィルマンという男だってそうだった。方法をもっと穏便なものを探しさえすれば、フィルマンのような人間が、魔力の多いエヴラールから魔力をもらうことだってできたはず。
だから極端なことを言ってしまえば、エヴラールに涼夏は必要ない。
涼夏だって、本当は誰からでも魔力を吸い取れるんだから、エヴラールだけを必要としているわけじゃない。
ただ、契約術でつながっているから、今の涼夏にエヴラールが必要なだけだ。
最低限、涼夏がこの世界に留まるためのつながりがあるだけ。
なら、涼夏には何のしがらみもないはず。
結論を導き出した涼夏は、淡く微笑んだ。
「ごめんなさい。それでも私は、帰りたいと思います」
これは涼夏のエゴだ。
涼夏はこんなに良くしてくれているエヴラールを見捨てて帰りたいと言うのだから。
エヴラールが静かに目を伏せる。
「そっか」
静かに涼夏の意思をエヴラールは受け止める。
それまで流れていたはずの穏やかな雰囲気はそうっとなりを沈めて、二人の間に静かな空気が流れる。
その日はもう、お互いに手をつなぐことはなかった。





