ヴァージンモヒートとムスクのブルース
あの人の乾きを癒していたのは、シャンプーの香りがする優しい人。
そんなエピソードです。
今回は、琴美でも淳でもなく、こちら(https://ncode.syosetu.com/n2753gn/1/)の序盤で登場した女性が主人公です。
もはやシリーズを読まないとワケが分からない不親切仕様でございます。
申し訳ございません。
二日前、ようやく繁忙期を抜けた。プロジェクトが終了してひと段落すると、休みが取りやすい。二ヶ月ほど前から上司に「有休使え」と言われていたので、金曜日の午前中に、客足が少ないショッピングビルに堂々と入った。
新作コスメをゆっくり見て、ピンクのリップティントと、オレンジカラーのアイシャドウを買った。普段は働いている曜日、働いている時間に休みというのは、やっぱり少しの優越感を覚える。
ランチはどうしようか。空腹はあまり感じないけど、友達がインスタに投稿していたカフェが目に入った。モノトーンの外装がお洒落な店で、窓から店内を見てみると若いお客さんが多い。
そういえば、この辺りは外回りでも来たことがある。あのとき一緒に歩いたのは職場で一番頼れる先輩で、先輩はこのカフェを見ていた。……いや、正確にはカフェの中で過ごす男女を見ていた。先輩が自覚しているかは分からなかったけど、あの人の目は確かに嫉妬を孕んでいた。
いや、今はもう関係のないことだ。
せっかくだし入ってみようか。メニューも気になるし。そう思って白いドアを開けようとした時、「すみません」と声をかけられた。
「はい?」
振り向くと、私の目の前には小柄な女性。ウエスト部分が露わになるショートトップスとスキニーパンツからわかる細身ながら女性らしい曲線を持つシルエット。鎖骨下までのワンレングスにカットされた髪は艶のあるミルクティーブラウンで、大きな目にぷっくりとした唇を持つ美人だった。
女性は「あの、すみません……」と定まらない視線で言った。
「以前、坂巻淳さんという男性と……この辺り、一緒に歩いていませんでしたか?」
彼女が出した名前は、私がさっきまで考えていた先輩の名前だった。
このとき、「知らない」と答えなかったのは、誰かに縋るような彼女の顔を見たから。
「ええ、仕事で一緒でした。……えっと、」
「…あ、失礼しました。……私は、黒岩琴美という者なんですけど、あの……」
女性――黒岩さんは、俯いてしまった。ボルドーのリップと目尻にしっかり引かれた黒いアイラインは“強い女性”を思わせるけど、今の自信なさげな表情には庇護欲が湧く。
「あ…」
思い出した。坂巻さんが彼女と歩いているのを見たことがある。そして、彼がこのカフェの前で嫉妬の視線を送っていたのも、この女性だった。
その時の彼女は、今よりも髪が長くて、髪色も明るかったから分からなかった。でも、坂巻さんの後ろをついて歩いていた彼女は、恋人と呼ぶには遠い距離感だったように思う。
迷子のような顔をする黒岩さんに、何か事情があることを察した。立ち話よりも座って話した方がいいだろうと思い、「入りませんか?」と提案すると、彼女は控えめに返事をして私について来た。
木目調のインテリアで温かみのある店内は、カップルや大学生くらいの若いグループが多かった。店員の男性にアイスレモンティーを二つ注文すると、穏やかな了承が返ってきた。
店員さんが私たちの席から離れたとき、自分が自己紹介していなかったことを思い出した。
「申し遅れました。私は相馬百合香と申します。和泉物産の営業一部営業二課で勤務しております」
黒岩さんは声を出さずに頭を下げた。
私が「今日は、」と切り出すと彼女と目が合った。彼女の目はコンタクトをつけていないのに、大きな黒目だった。
「どうして私に声をかけたんですか?」
紅い唇が、控えめに開いた。
「あの、淳が会社辞めたって聞いてからずっと心配で……。辞める理由が分からなかったから……でも、連絡を取る手段も…無くなっちゃったから……」
消え入りそうな声で話す彼女に、私は追い詰めるような質問をした。坂巻さんが会社を去ったのは事実だし、私はその理由も知っている。でも、その前に尊敬する先輩と、目の前の彼女がどういった関係なのかを聞いておきたかった。
「黒岩さんは彼の……恋人、だったんですか?」
彼女は「いえ……」と首を振った。
「もっと大人の関係だった?」
私が迫ると彼女の目に水が溜まった。焦って「ごめんなさい」とポケットティッシュを渡すと、彼女は「すみません」と華奢な手を伸ばしてそれを受け取った。彼女の白い手首からは、冷涼感のあるミントと、爽やかなシトラスの香りがする。
運ばれてきたレモンティーのグラスが汗をかいても、私は彼女の声をじっと聞いていた。彼女は坂巻さんと体の関係を二年ほど続けていたが、昨年の九月にその関係を終わらせて、連絡先も消してしまったという。
彼女は全て受け入れて坂巻さんを愛していた。お互いを傷つけても、彼が特定の相手と深い関係になることを嫌っても。
潮時を探して、坂巻さんとの関係に線引きしていた彼女は、自分の想いを抑えるのに、その胸を軋ませたことだろう。そして関係を終わらせた最後の夜、彼女は坂巻さんに乱暴された。彼女の華奢な身体と柔らかい心を裂く激痛、胸を過る望まない妊娠の可能性。聞いているだけで、私も酷く胸が痛い。
私は恐る恐る黒岩さんに聞いてみた。
「黒岩さん、お身体の方は…?」
レモンティーをこくりと飲み込んだ彼女の紅い唇が、小さく開いた。
「大丈夫です。普通に仕事も出来てますし、妊娠もしてません」
「はぁ、そうですか……」
良かったです、とは言えなかった。二人が心を渡さない関係であっても、二人に何があったとしても、彼のやったことは犯罪同然だから。衝動のままに自分の尊厳と秘めていた柔らかな想いを踏みにじられた苦しみは、どれほどのものなのか。
「誰かに……相談したりは?」
「……してません。時間の無駄ですし、何より……あんなことされて自分が痛い目に遭っても、淳を嫌いになれなかったので」
窓に視線を変えた彼女は、慎ましく健気に咲く鈴蘭のように微笑んでいた。
ああ、この人も私と同じ。彼がどんな男だろうと嫌いになれないんだと。
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一度、彼に告白したことがある。仕事を覚えて独り立ちできるようになった社会人三年目、坂巻さんが退社するのを待っていた。その日は直帰だった私が自社ビルのラウンジにいることに、坂巻さんは驚いたのか切れ長の目を丸くしていた。
『あれ? 今日直帰じゃないっけ?』
『待ってたんです、ここで……坂巻さんのこと』
彼は『どうして?』と聞いた。
私は坂巻さんの目を見て言った。
『好きなんです。坂巻さんのことが』
『俺が?』
きょとんとする彼に、私は縋るように想いを告げた。
『もし恋人がいないなら、私と付き合ってください』
数十秒の静寂。私は彼が一瞬だけ顔を顰めるのを見た。それは錯覚だとはぐらかすように、彼は困ったような笑顔を浮かべた。
『そっか……。その気持ちは凄い嬉しいんだけど、お前のことは…信頼できる大事な後輩っていう思いが強いから、そんな風に見てないんだよな』
一息おいて、彼ははっきりと告げた。
『だから相馬の彼氏にはなれないわ』
坂巻さんの言葉に、私は嘘を感じた。一瞬だけ顰めた顔に言葉をつけるなら、
『お前もかよ』
これではっきりと理解できた。ああ、彼は本当は人からの甘い感情が鬱陶しいんだ。全部わかったから、『わかりました』と私は言った。そして、告白したことなんか忘れたように、彼の思う“大切な後輩”でいた。私にとっての坂巻さんも、“大切な先輩”だったから。
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坂巻さんへの愛に溢れた黒岩さんに、私が話せることは何だろうか。迷いながら口を開く。
「私は……何からお話すればいいのか……」
黒岩さんの優しそうな目が、私に向き直った。
「……私が新卒で入社したとき、坂巻さんが教育係だったんですよ。そこから半年くらいして、坂巻さんが課長になって、私との立場も変わっちゃったんですけど……今でも大切な先輩だと思っています」
黒岩さんは「はい……」と頷いた。
「坂巻さん……体調が不安定な日が続いて、その後の回復も思わしくなかったみたいで。私も会社の規則があって詳細をお話しすることは出来ないんですけど」
十月初め頃だっただろうか。黒岩さんが坂巻さんと関係を終わらせてからしばらく経った頃、坂巻さんは壊れた。
人格が変わったとかではなく、身体が世界を拒絶した。携帯している薬の数が増え、気象病の症状は、もはや天気なんか関係なくなっていた。弱みなんかなさそうな人はいつしか疲れを見せ、「帰って寝たい」が口癖になった。
新人の男の子から聞いた話では、トイレに駆け込んで空吐きをしたり、ほぼ定時退社したはずの坂巻さんが、二十二時前の新宿駅のホームでぼんやりと座っていたこともあったそうだ。心配になって話しかけても上の空で、曖昧な返事しか返ってこなかった。そう泣きそうな顔で相談してきた、内気だけど優しい後輩を思い出した。
そして坂巻さんが壊れ始めて一ヶ月過ぎた頃、彼は会議中に吐血して救急搬送された。その後、胃潰瘍、適応障害、心因性失声症の診断が出され、とうとう会社に退職届を出した。
彼の叔母さんが迎えに来て退院してからは、叔母さんが所有する千葉のマンションで独り暮らしているという。
『相馬さん、ご心配ありがとうございます』
眼鏡をかけ、ニットとスカートを合わせた上品な服装の女性――坂巻さんの叔母さんは、そう言って私に自分の連絡先を渡してきた。
『お恥ずかしい話ですが、私たちは今の淳のことをほとんど知りません。こんな若いお嬢さんに負担をかけてしまうのは大変申し訳ないことですが、何か淳の心を動かすものがあれば、助けてやっていただけませんか?』
『……分かりました。出来る限りのことはさせて頂きます』
私は電話番号が記載された小さなメッセージカードを両手で受け取った。
営業二課の課長は、坂巻さんの教育係を担当した他課の大先輩に引き継がれて、滞りなく仕事が進んでいる。坂巻さんは再就職どころか、睡眠と排泄以外は自発的に何もしなくなり、叔母さん家族が毎日マンションに行って、身の回りの介助をしていると聞いた。
ただ、会社での規則があろうとなかろうと、黒岩さんにそれを話す気はない。散々傷ついた彼女に罪悪感なんて持って欲しくない。彼女には彼女の幸せがあるべきだ。
私はレモンティーで喉を潤わせてから、後回しにしていた疑問を彼女に投げかけた。
「黒岩さん……」
「はい?」
「彼が辞めたというのは、どこから聞いたんですか?」
彼女に和泉物産の人間と接点があるとは思えない。会社の人間でない限り知らないから、坂巻さんから聞いていないのなら誰が話したんだろう。
黒岩さんの、話していいのか迷っている表情が数秒。そして、彼女はストローから口を離した。
「……後輩に誘われた合コンで、和泉物産の方にお会いする機会があって……。淳と同年代の男性たちが言ったんです……。『二課の課長は目の上のたんこぶだった』『辞めてくれて清々した』って」
私は心当たりをすぐに思い浮かべた。あの人たちは、相変わらず人を貶すしか出来ないのか。人を下げて女性を口説く暇があるなら努力しなさいよ。私は心の中で毒づいた。
「……そうでしたか。弊社の社員が余計なことを言って、ご心配をおかけしました。大変申し訳ありません」
頭を下げた私の耳に、「いえ、相馬さんが謝ることじゃないです」と慌てた声が聞こえた。私は頭を上げ、「ただ」と切り出した。
「心配しないでください。私を含め、ほとんどの社員は坂巻さんのことを信頼していましたし、今も大好きです。言った人たちは……坂巻さんが優秀でプライベートでもモテるから、自分たちに取り柄も魅力もないことを認めずに僻んでるだけです」
彼女が「ふふっ」と頬を緩めた。
それから少し、黒岩さんからも話を聞いた。無愛想なくせに寂しがり。いつも不機嫌そうな顔をして、幸せそうに笑うところを見たことがなかった。そう彼女は話した。職場での彼しか知らないから、一瞬信じられなかった。
でも、私が告白したときに一瞬だけ見た、あの表情と、いつしか彼がさらりと言った、あの言葉を思い出す。
「坂巻さんが言ってたんですよ。いつだったか忘れちゃいましたけど、“結婚”とか“恋愛”の話になったとき」
黒岩さんの目が、苦しげに笑った。
「『どんなに相手を愛してようと、ずっと一緒にいられる保証なんか何もない』……。『心を明け渡した人がいなくなる苦痛を味わうくらいなら、損得勘定だけで付き合う方がずっと楽だ』って」
彼女の苦しげな目は変わらないまま、グラスに入った氷が融けて、からりと冷たい音をたてる。
彼女は知っているんだろう。彼が人を愛した末の苦しみを。ただ、彼女は知っているんだろうか。彼が時々、自由に呼吸出来るとでも言うように安心したような顔をしていたことを。それが、最低でも月に三回はあった。それはきっと、彼女に会う日だった。
「淳は……」
黒岩さんがレモンティーが半分残ったグラスを軽く傾ける。
「淳は、変わらず……」
彼女のぱっちりとした目から、涙が流れた。涙にファンデーションが混ざることも構わず、声も出さず、鼻も啜らず、優しさを孕んだ瞳から涙を流す彼女が、ひどく悲しくて美しかった。でも、彼女はすぐに「すみません」と私から受け取ったティッシュで涙を拭きとった。そして何かを振り切るように、レモンティーを飲み切った。
変わらず、なんて言いたかったんだろう……。
涙を止めた彼女は「今日はありがとうございました」と頭を下げた。
「いいえ、こちらこそお話出来ることが少なくて……」
「そんなことありません。私も、最後に淳の気持ちが聞けたので。……それでは失礼いたします」
そう言った彼女は、当たり前のように伝票を透明の小さな筒から抜き取った。細い指が伝票を挟んだとき、清涼感のある香りだった手首から、高級なシャンプーを彷彿とさせるホワイトムスクが香った。その甘やかで穏やかな香りが心地よくて、その香りに心を奪われた私が我に返った頃には、もう彼女は店を出ていた。
優しい人だった。真新しい刺傷ごと包み込むような眼差しと、張り詰めた神経を落ち着かせるムスクの香りに、自分の身を委ねたい。温もりが伝わるほど抱きしめて欲しい。そう思わせる人だった。
一人になったテーブル席で、スマートフォンのカレンダーアプリを開いた。明日、坂巻さんと会う。彼の声が戻ったと聞いて、彼の叔母さんに、『坂巻さんの体調を考えて私がそちらに向かいます』と言ってお願いした。黒岩さんに会ったことを話したら、彼はどう思うんだろう。激怒して顔を歪ませるだろうか。傷つけた罪悪感と後悔に泣き崩れるだろうか。
「いつかまた会えたら……」
私は薄くなったレモンティーを飲みながら、そう呟いていた。坂巻さんには黒岩さんしかいないような気がして、自然と言葉が出た。一生ない可能性も考えながら、二人の再会を願う。
私はあの優しいムスクに包まれて、彼の乾いた心が癒えれば、それでいいんだから。
書きたいことはもっとあったはずなんですが、疲れた&長くなるのでこんな感じになりました。
今回もお付き合いいただきありがとうございました!




