第4話
重い瞼を持ち上げると鮮烈な赤が視界を覆った。上体を起こして辺りを見渡すと、見覚えのない部屋の汚い床に倒れていた。割れた窓ガラスから差し込む光はこの世のものとは思えないほど赤く、辺りからは何の音も聞こえない。
ああ、崩壊した世界だ。
いつか見た夢の続き。僕は、少なくとも記憶のある範囲では、夢の続きを自覚して見るのは初めてだった。
僕は立ち上がり、部屋の扉を開けた。薄汚れた廊下を歩き、更に扉を開けると、下から上に続く長い階段があった。僕は階段を上がり切り、錆びた扉を開けた。前回の夢が中断した場所、周囲と比較して一際大きな高層ビルの屋上に出た。これ等の動作は、僕が考えるまでもなく自然に身体が動いた。
赤い水に浸されていない景色は美しかった。確かに、見渡す限りの廃墟で、動物の気配は微塵もなく、死を連想させる光景だが、僕は美しいと感じた。空を見上げると、相も変わらず大きな満月が、周囲に黒い雲を従えて浮かんでいた。
バタン、と大きな音がした。錆びた扉が勢いよく開かれた音だった。振り返ると、例の少女がーー縋りつくように泣いていた少女がーー息を乱して、膝に手を置いて、それでも必死に顔を上げて僕を見ていた。
やっぱり、似ている。いや、そのままだ。
僕は心の中で思った。次いで、誰に似ているのだっけ? と考えた。間も無く、転校生のことを思い出した。現実で、僕達のクラスに転校してきた石川真白さんだ。
「うわあああ!」
彼女は、最初に出会った時と同じように僕の身体に飛びついた。問題は、最初と異なり、僕が警戒心を失っていたことだ。僕は彼女の勢いを支えきれず、コンクリートの床に倒れた。しかし、彼女はそんなことは構いもせず、倒れたまま僕の身体に縋りついた。
「お、落ち着いて」
と僕は言った。しかし、泣きじゃくる彼女の耳には届いていないようなので、もう一度「落ち着いて」と繰り返した。すると、彼女は涙にまみれた顔を上げて、僕の顔を見詰めた後に小さく頷き、僕の直ぐ傍に座った。僕は上体を起こして、彼女の言葉を待った。
「ずっと、ずっと、待ってたの。あなたが、幻だったのかと思って、悲しくて」
彼女は涙を流しながら、自分の胸を抑えて言った。その姿は「悲しい」を通り越して苦しそうだった。
「幻じゃない」
僕は努めて優しい口調で語り掛けた。彼女が気の毒だった。彼女は小さく頷いて
涙を拭い、にっこりと笑った。その笑顔は石川真白さん本人にしか見えなかった。太陽の日差しのような温かさを感じたからだ。
「君は一人なの?」
僕の問いに、彼女は困惑を示した後、頷いた。
「何も知らないの?」
僕は「知らない」と答えた。知る筈がない。僕はこの崩壊した世界に、言うなればつい先ほど生まれたばかりなのだ。ただ、僕がこの世界について何も知らないということを僕自身が認識した瞬間、僕の中にこの世界について知りたいという強い欲求が生まれた。
「もしよかったら教えてくれないかな。この世界と、君について」
僕が尋ねると、彼女は一層驚いた。その顔は、
この人は本当に何も知らないの?
と言う感情がありありと浮かんでいた。ただ、僕は本当に何も知らないので、どうしようもなかった。言い訳のしようがない。
「……最初は、小さな変化だったの」
彼女は座ったまま語り始めた。
「夕暮れの時間が少しずつ長くなった。みんな、『これは怪奇現象だ』とか、『いや、科学的に説明できる』とか議論してた。でも、世界はわたし達の困惑なんて気にもせずに、次第に、一日中が夕暮れになった」
《《みんな》》、《《わたし達》》。今では命の気配を失った世界にも、かつて多くの人々で栄えていたのだと僕は理解した。
「次はお月様。少しずつ大きくなって、空を覆い始めたの。この頃には、みんな、もう議論することは止めて、ずっと祈ってた。悪いことが何も起こらないように。でも、わたし達の願いは届かなかった」
彼女は身震いした。
「赤い水が地面から湧いた。赤い水は、人も、動物も、虫でさえ、呑み込んだ。どれだけ高いところにいても、船の上にいても、赤い水は命を逃さなかった」
彼女は僕の顔を見詰めた。悲しげな口調とは裏腹に笑みを浮かべていた。全てを諦めたような笑みだった。
「多分、生き残れたのはわたしだけ」
僕は間をおいて、どうしてわかるのかと尋ねた。世界中を見て回ったわけではないだろうから、生きている人間が他にいてもおかしくはないだろう、と。疑問への答えを、彼女は持ち合わせていた。
「赤い水はね、わたしを避けたの。わたしの隣にいた友達や、家族は呑み込んだのに。TVの画面に映った世界中の人々や、厳重に守られた偉い人達は呑み込んだのに。わたしだけからは逃げるように避けたの」
彼女は僕の手を握った。僕は驚いてはっとする。
「あなたは? あなたも赤い水から逃げられたの? 今までどうしていたの? 前は、どうして急に消えたの?」
僕は彼女の疑問の全てに答える術があった。赤い水から逃げられたのも、今までどうしてきたのかも、急に消えたのも、全て「夢だから」で説明が付く。ただ、その単純な答えを口にするのは憚られた。
「わからない。気が付いたらここにいたんだ」
嘘だった。彼女は笑みを浮かべたまま「そうなんだ」と呟いた。続いて、僕にぐっと顔を近づけた。僕か彼女のどちらかが僅かに動けば鼻先が当たるほどの距離だった。
「でも、嬉しい! 生きてる人に会えて嬉しい! あなたに会えて嬉しい!」
彼女は僕の手を握ったまま、言葉通り本当に嬉しそうに笑った。
僕は、涙が目に浮かんだ。彼女の境遇に心が揺れた。ただ、それだけではない。誰かに自分の存在を喜ばれたことが心を温めたのだ。
「君はどれぐらい一人でいるんだ?」
彼女はにこっと笑って立ち上がり、鉄柵の方へ歩いた。そして、赤い水が湧き始めた地上の光景を眺めながら答えた。
「そうだね。もう、10年ぐらいかな」
途方もない。本当に途方もない時間だ。彼女の容姿から考えるに、人生の半分以上を一人で過ごしていることになる。僕は頭痛を覚えて額を抑えた。
「大丈夫?」
彼女は近付いて膝を折り、僕の顔を覗き込むようにして心配した。僕は小さく頷いた。そして、想像するだけで気がおかしくなりそうな孤独と共に生きてきた、尊敬するべき彼女の顔を見て尋ねた。
「君の名前は?」
彼女は口を開いた。
「わたしはーー」
僕は飛び起きた。混乱の中で、見慣れた自分の部屋を何度も何度も見渡した。そして、ベッドの上で縮こまり、胸を抑えた。
酷い夢だ。