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第16話

 いよいよ明日は文化祭だ。毎年、文化祭の前日も当日も、僕にとって価値のある時間ではなかった。いつもの高校生活と同じ、いや、少々面倒な日、それだけだ。しかし、今年は自分が多少なり関与したという事情もあり、らしくもなく緊張していた。けれど、諸々の事情で身体は疲労していたので、その日の夜、僕はあっさりと眠りにつくことができた。

 そうして、僕は再び崩壊した世界に足を踏み入れた。今回のスタート地点は例の高層ビルの階段の頂だ。気が付いてすぐさまゾッとしたのは、足元の階段の一段下が赤い水で浸されていたからだ。例えば、赤い水の中からスタートしていたら、僕はどうなっていたのだろうか。そもそも、赤い水に取り込まれたらどうなるのだろうか。この世界の住民達のように消え去るのか。それとも、この世界の住民ではない僕は違うのか。かつて、夢の中ならば問題ないだろうと結論付けた事柄が、そう簡単ではないと今では知った。

 疑問を残したまま屋上の扉を開けると、例の彼女が柵から世界を眺めていた。赤い水に浸された世界。巨大な月が天空を覆う。いつもと違ったのは、死んだような無音が支配する世界で、彼女の歌声が響いていたことだ。どうやら真剣に歌っているようで、彼女は僕が扉を開けたことにも気が付かず、赤い水平線に向かって歌を響かせていた。歌は、僕らの世界のポップソングで、青春の中の恋愛を明るく綴った歌詞と、それを盛り上げるメロディで構成されていた。彼女の歌は美しかった。ただし、この情景には似合わない。

 彼女は歌い終わると「ふー」と長いため息のような声を出した。僕が密やかに拍手をすると、彼女は勢いよく背後を振り向き、困惑した顔を見せた後に顔を真っ赤に染めた。


「き、聴いてたの?」

「聴いてた」


 彼女は俯き、僕のことを下から伺うような瞳で「う~」と唸った。


「へ、下手だったでしょ? 歌は、よく歌うんだけれど、自分で好きなように歌うだけだから、ここには聴かせる相手もいないし、欠点を指摘してくれる人もいないし、だから、わたしの歌は、人に聴かせられるようなものじゃ……」

「上手だった」


 僕は答えた。彼女は疑いの眼差しを向ける。


「本当だよ。仮に下手だったとしても、僕は同じことを言っただろうけれど、僕は嘘を吐くのが苦手だからね。内心、ほっとしてるよ。お世辞じゃなく、本心を伝えられるんだから。僕としては気楽なもんさ」


 彼女は間をおいて「ふふっ」と笑った。僕は首を傾げる。


「面白い言い方。でも、ありがとう。自信が出たよ」

「それは良かった」


 僕は彼女の隣まで歩き、柵に体重を預けて世界を眺めた。彼女は僕を横目で確認しながら、ふっと微笑んで視線を世界に移した。


「寂しい光景だよね。何もないんだもん。全部赤い水の下だよ」

「君はこの光景の中でずっと生きてきたんだろ?」

「そう、水が湧いたらこのビルに逃げて、水が引いたら外に出て必要な物を探す。それの繰り返し、繰り返し」


 僕が彼女に視線を向けると、彼女は取り繕う様に続けた。


「あ、大丈夫だよ。もう、慣れたからね」


 僕は目を細めた。「大丈夫じゃないさ」

 彼女は「え?」と尋ね返した。


「無理しなくていいんだ。ここに僕等しかいないなら、無理はしなくていい」


 奇妙な言い方になってしまった。けれど、彼女は「うん、そうだね」と小さな声で言った。僕の本心が伝わっていればいいのだけれど、相変わらず、僕のコミュニケーション能力は地を這う虫のような有り様だ。


「でも、最近は楽しいの」


 彼女の声は弾むようだった。僕は「へぇ?」と返した。


「そう、とっても楽しいの。いつまで続くのか分からないけれど、とても幸せなの」

「へぇ、いいね」


 僕は答えながら考えた。「何が楽しいの?」という質問を、彼女に尋ねるべきだろうか、と。察しはついているし、その答えを聞いてしまえば全てが確信に変わる。この世界と彼女への疑問が解決する。けれど、それが正しいことなのか分からない。だから、僕は尋ねなかった。まだその時ではない、と勝手に決めつけた。怖かったのだ。覚悟ができていなかった。まだこの夢を、夢のままにしておきたかった。


「目が痛くなりそうだ」


 僕は言った。彼女は考え、思い至ったという顔をした。


「そっか。わたしは慣れたけれど、空も地面も水も赤いもんね。目には悪い」

「慣れるのかな?」

「うん、慣れるよ。というか、慣れざるをえないかなぁ。この光から逃げるには、どこかの部屋に入ってカーテンを閉めるぐらいしかないから。わたしは、眠るときはそうしているの」

「君の部屋があるの?」

「あるよ。このビルの最上階。いつか連れて行ってあげる」

「ありがとう。でも、今じゃないんだ」

「うん、今じゃない。散らかってるからね。片付けさせて」

「なるほどね」


 彼女が笑うと、僕もつられて笑った。

 そして会話をしていると、この静止画のような世界に変化が起きた。軽い地震が起きて、地面がずれるような騒音がすると、赤い水がどんどんと引いていった。地面に吸収されていくようだった。大した時間もかからず、赤い水は水溜まりも残さずに完全に消え去った。後には崩れた街の跡だけが残った。


「おかえり」


 彼女が呟いた。僕は直ぐに理解した。彼女の世界が戻ってきたのだ。もう崩れそうで、そう長くはもたないだろうけれど、赤い水のない街が、彼女の居場所だ。


「君はこの街で生まれたの?」


 僕が尋ねると、彼女は小さく頷いた。


「この街で生まれてこの街で育ったの」

「この高層ビルに住んでた?」

「そうだよ。そのおかげでなんとか生活しているわけですよ」

「へぇ、中々こんな高層ビルに住めないでしょうに。もしかして、お金持ち?」

「あはは、そうかもね。お父さんが有名な学者さんだったらしいよ。よく知らないけれどね」

「そうなんだ」

「そうなんですよ」


 その父親が目の前で奪われた時、どれだけ悲しかっただろうか。今や父親がどんな学者だったのかさえ知る術もなく、彼女はこの世界に一人で生きているのだ。

 重い、と思った。凄まじく、重い。


「尊敬するよ」


 僕は突然声に出した。彼女は「ん?」と首を傾げた。僕は声に出すつもりがなかったので「しまった」と思いながらたどたどしく続けた。


「だから、つまり、君の生き方に、さ」

「生き方?」

「折れない心というか、挫けずに生きてるところというか」


 彼女は「あはは」と笑った。


「多分、わたし、生まれて初めて人から尊敬された」

「ああ、そうかな? そうなる? うん、ご感想は?」

「嬉しい。ありがとうね、城くん」


 僕の名前を彼女が言った時、僕は夢から覚めた。

 外は既に明るくて、遮光カーテンの隙間から光が漏れていた。黄色い光だ。僕は立ち上がり、カーテンを開けて、秋の日差しを全身に浴びた。全く、太陽の光というのは、正常であればこれほど心地の良いものなのかと再確認する。

 目覚まし時計が鳴る前にタイマー機能を切って、僕は制服に着替え始める。さぁ、今日は文化祭だ。柄にもなく心が浮ついているのが分かった。クラスメイトと協力し、自分なりに頑張った日々のことを思うと、成功させたいと心から思った。



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