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第11話

 砕けた道路の白線を跨いで、紺色のアスファルトの上に立っていた。赤い太陽が摩天楼の影を地面に落とし、冷たい風が無人の世界を渡る。

 視界は明瞭で、僕の鼻は無臭という名の匂いを感じ、耳は無音という名の音を聞いていた。僕は、そうと知らなければ、この世界が夢であるという事実に気が付かないほど、崩壊した世界に馴染んでいた。


「あ」


 声が聞こえた。見ると、この世界でただ一人の住人が、青いプラスチックの籠を手に下げて、道を歩いてきた。彼女は僕の存在に気が付くと速度を上げ、駆け寄り、嬉しそうな笑顔を輝かせた。


「来てくれたんだ!」


 果たして彼女の表現が適切なのかどうか、僕には分からない。望んだ夢を見ることが難しいように、僕がこの世界へ訪れることは、僕の意思とは関係がない。だから、僕は彼女の言葉に曖昧な反応を示した。外国人がするように、肩を竦めて口をへの字に曲げ、両腕を肘からまげて手の平を上に向けた。僕の反応を彼女は気に入ったようで、一しきり笑った後、同じ動作をした。僕は、美しい人はどんな動作をしても美しいのだと、初めて知った。

 僕は彼女の手の青い籠を指さして「それは?」と尋ねた。彼女は「あはは」と笑って、僕の胸に籠を押し付けた。僕はそれを素直に受け取った。


「本を借りに行こうと思って。図書館へ向かう途中だったの」

「成る程、その籠に借りた本を入れるわけだ」

「その通り。見事な推理。城くんは頭がいいね」

「真白さん、馬鹿にしてる?」


 彼女は笑って首を横に振った。


「籠、持っててくれる? 城くんが急にいなくならないように、大事に持ってて」

「口を挟ませてもらうけれど、好きでいなくなるわけじゃないんだ」

「あ、そうなんだ。そうだよね。だって、前なんて、これからって時に消えてしまうんだもの」

「そうだよ。だから、別れの挨拶ができないのは、僕の不作法ってわけじゃない」

「気にしてたの? 真面目だねぇ」


 彼女が歩き出すと、僕も後ろについて歩いた。

 僕達は崩壊した街を二人きりで歩いた。街はどこまでも同じような景色で、崩れそうな高層ビルと、長い間整備されずに朽ちた道路、植物の蔓だらけの車の列が続いていた。音と言えば、僕達の足音と会話ぐらいで、鳥の囀りすらなかった。


「文化祭の本を読みたいの」

「へぇ、変わった本を探しているんだね」

「うん。ほら、わたし、学校へ行ったことがないから、文化祭って、よくわからなくて、興味が湧いたの。城くんはどう? 文化祭ってわかる?」


 僕は小学校で6回、中学校で3回、高校で1回、計10回の文化祭を経験しているけれど、彼女に説明できるほど理解してはいない。楽しいと感じたこともない。けれど、どう考えても、彼女はそんな返答を期待していないだろうから、


「あんまり詳しくはないね」


 と奇妙な返事をした。文化祭に詳しい専門家なんて存在するのか、と自分に問い返しながら。

 彼女は残念そうに「そうなんだ」と言ってから、振り返って僕を見た。じっと見詰めるものだから、僕は視線のやり場に困り、彼女から目を逸らして「なに?」と尋ねた。彼女は答えず、寂しそうに首を横に振って、再び歩き始めた。

 図書館は高層ビルの合間に立つドーム状の建物だった。入り口の鉄の門は開いており、彼女は慣れた様子で躊躇なく図書館へ足を踏み入れた。薄汚れた廊下を抜けて、本棚と机が置かれた部屋へと入る。図書館は、現実の世界でも崩壊した世界でも変わらず、同じような構造をしていた。異なる点と言えば、カウンターにも部屋のどの場所にも、僕達二人以外には誰もいないという事実だけだ。

 文化祭に関する本なんてどのコーナーにあるのか見当も付かない。そもそも、僕は文化祭に興味を持ったことがないし、その本を読もうなんて思ったことは更にない。だから、彼女の本探しを手伝いながら、僕の興味は段々とこの崩壊した世界の書物へと移っていった。

 色々な本があった。現実の、僕達の世界と変わらないほど、本の種類は膨大だった。幼児用の絵本から、小説、この世界の偉人の伝記、この世界の歴史書、各ジャンルの専門的な本。変色した雑誌を開くと、エプロンを着た女性が小学生ぐらいの子供に料理の手順を説明している写真が掲載されていた。この女性も子供も、既に生きてはいないのだろうと思い至ると、寂しい気持ちになった。この人達には、それを悼む存在すら残されていないのだ。

 その後、僕は本棚を見て回り、心理学に関するコーナーで足を止めた。別段、理由があったわけではないけれど、目に留まった本を取り出した。本には桜の絵が描かれた栞が挟まっており、僕の意思とは無関係に、そのページが開かれた。


 孤独を埋める方法について


 手書きの文字で、題の下に「寂しい」と小さく書かれていた。僕は雷に撃たれたように、身体の芯から衝撃を受けた。この文字は、確証はないが、彼女の文字だろう。この世界でただ一人残された彼女のものだろう。栞が本から離れ、図書館の床に落ちて滑った。僕は栞を拾うこともせず、本を持ったまま石像のように固まって動かなかった。


「城くん!」


 大きな声が部屋に響いたので、僕は急いで本を閉じ、棚にしまい、栞を持って、声の方向へ向かった。僕は小走りで、本棚の影から突然現れた彼女の存在に気付けず、派手にぶつかって、お互い尻もちをついた。

 僕は立ち上がり、「ごめん、大丈夫?」と声をかけた。彼女はいつものように笑って「大丈夫」と答えた。僕が駆け寄り、手を差し出すと、彼女は嬉しそうに破顔し、僕の手に掴まって立ち上がった。


「ごめん。止まれなかった」


 再び謝罪すると、彼女は首を振って、「私も悪かったから」と言った。


「またいなくなっちゃったのかと思ってさ。ちょっと怖くなったんだよね。だから走っちゃったの。図書館は走ったらいけないのにね」


 彼女は指を指して壁に貼られたポスターを示した。注意喚起を促す手書きの簡素なポスターだ。


「走るべからず、大きな声を出すべからず……大きな声を出しても、気にする人はいないけれどね」


 冗談めかして呟く彼女にかける言葉を見つけられない。こんな時、翼だったら、いいや、僕以外の誰かであったら、彼女を元気づけられただろうに。僕では、どうしたらいいのかさえ分からない。


「あれ? その栞」


 彼女は僕の指に挟まれた栞に視線を向けた。僕は「ああ」と答えて、「落ちてた」と嘘を吐いた。栞を彼女に手渡すと、彼女はそれをじっと見つめた。


「懐かしい。これ、わたしのだよ。随分前に失くしてしまったの」

「それは、良かった。役に立てて」

「うん、ありがとう! じゃあ、もうちょっとだけ助けてもらうね」


 彼女は僕が持つ籠に幾つかの本を放り込んだ。題名を見るに、文化祭の出し物の参考書のようだ。こんな本が世の中にあるのかと、本息で心を埋める事柄から逃れるように、誤魔化すように、驚いた。

 僕達は図書館を出て、もと来た道を歩いた。道中、彼女と会話を交わしたはずだけれど、内容はよく覚えていない。例の高層ビルまで到着すると、そのあたりで、僕の記憶は途切れた。

 目を覚ました僕は、遮光カーテンが作る暗闇の中で、しばらく布団に包まってじっとしていた。しかし、闇の中でちかちかとスマートフォンが点滅するので、面倒に思いながら立ち上がり、机の上のスマートフォンを立ち上げた。


「おはよう、城くん! 今日、時間ある? もしあったら、わたしの家へ遊びに来ない?」


 僕はホーム画面に表示された真白さんからのメッセージをぼんやりと眺めてから、


「参ったな」


 と独り言を呟いた。



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