畏れながらも、奴隷でございます 4
「これは一体、どういうことですか?」
盆を机に置いたジアさんが尋ねる。
「水でできたインクは、乾いたところに置いておくと、水が飛んでしまうのです。そうすると、黒いインクの残骸はこのように、パラパラと落ちてしまうのです」
紙を乗せてあった盆の隅に指を走らせると、黒い粉末が指先についてくる。あやめの背中から指先を覗き込んだサラ様が、口を開く。
「つまり、水が乾いたためにインクが剥がれてしまった、と?」
「仰る通りです。このインクは元々、水が豊かなイバで古くから用いられているもの。ですので、この国の環境には合いません」
舐めたインクは懐かしい味がした。祖国で慣れ親しんだ、墨の味である――少々、質が悪いが。
「ですが、あやめ。この部屋のものはなぜ消えていないのでしょうか」
ジアさんが口を開く。それを一瞥して、静かに答えを述べた。
「水があるからです」
水がある——この部屋は、砂漠にしては珍しいほど、潤沢に水が用いられているのだ。
「水など一体どこにあるのですか?」
「至るところにありますよ。例えば——」
飾り棚には花瓶、入り口には水盤、朝食の後からそこにある水差しには、まだたっぷりと水が入っている。
「水は蒸発するものです。しかしここは中庭の木々に面した石の部屋。屋敷全体の構造も、水を逃さないための造りになっています」
「水を逃さないための造り?」
サラ様が鸚鵡返しに口を開く。
「そうです。例えば――あの天井。半円の中央が少し窪んでいる。そしてその真下のここには海綿の置物。部屋の水は夜になると、あの窪みからここに滴り落ちるようになっているのです」
あくまで一例に過ぎないが、この部屋は水を循環させる仕組みが完璧と言って差し支えないほどに完成されている。砂漠とは恐ろしいものである。
「改めて尋ねますが、あやめ。図書館には水がない理由は何なのでしょうか」
図書館に足を運んだ3人を、先日髭男に同行してきた男は仰々しい態度で迎え入れた。どうやら彼は、ここの司書であったらしい。案内された先には、ほかにも数冊の『真っ白い写本』が置いてあった。
水がない図書館では、水でできたインクは――あやめに呼ばせれば墨なのだが――消えてしまう。
「主には日照、それから通気性、あるいは換気が良すぎるとでも言いましょうか。光を多く取り込める分、屋外と同じような環境になっているのが要因です」
砂漠の図書館とはこういうものなのだろうか。昼間はもちろん、夜も星や月の明かりを多く取り込めるように採光を最重視している。湿度や温度については殆ど考慮せずに設計したことが窺えた。
「窓に布をかけたり、部屋に植物でも置いたりなど、多少水を確保すればいいかと思います」
「しかしそれでは、貴重な紙の資料に黴が生えてしまうのではありませんか?」
司書が口をはさむ。なるほど、それを心配していたのか。
「その心配はないと思われます。一概に言えたことではありませんが、これほど乾燥した環境下において、これほど乾燥しきった紙に増殖する黴も珍しいかと」
「確かにその通りです。それからあやめ、この紙、少し脆くなっています。これも乾燥のせいですか?」
「その通りです。ジアさんの写本が脆いのは単純に、もともと紙に含まれていた水さえも消えてしまったからだと思われます」
「――ありがとうございます。上に話を通して、環境を整備しましょう」
司書が深々と頭を下げる。その髪からは、インクのにおいがした。
数日後。ジアさんを通じて、正式に図書館の改修が決定されたことが知らされた。事実上図書館がなくなるため、当面司書はお役御免となるらしい。
「写本をすべてこちらに移しておいて正解でしたね」
「えぇ。そういった点において、サラ様は非常に――なんというか、先回りが巧い方ですから」
「私がどうかしましたか?」
掃除中の二人に、サラ様が声をかける。手にしたカップは3つ。休憩しろ、という意味だった。芳醇な香りの紅茶を喉に流し込んだ時、部屋の扉が再び荒々しく叩き開けられる。今度掴み上げられたのは、あやめの方だった。
「女のくせに出しゃばりやがって!お前のせいで仕事がなくなったじゃねぇか!どうしてくれるんだ!!」
かくして物語は、冒頭に戻るのだった。