畏れながらも、奴隷でございます 3
翌朝。件の髭男がもう一度部屋に乗り込んできた。同伴しているのはおそらくその上司らしい。同じように髭を蓄えているが、身なりは多少小綺麗である。白い朝の服は、裾に僅かに砂がついていた。
彼らが持ってきた本を広げて見せる。新しい紙に黒々と書いたはずの写本は、全く彼らの言う通り、まっさらに消え去っていた。
「——なるほど。これは確かに、困りましたね」
主人は少し考え込むように息をつく。どうしたものだろうか。
「サラ様」
「どうしましたか?あやめ」
「触れてもよろしいでしょうか」
「もちろん。お二方も、構いませんね?」
頷いた彼らに一礼して、そっと指先を伸ばす。文字を書いた跡は確かにある。ただ、黒い墨だけが消えているのだ。
「書いた文字のインクだけが消えています。紙に跡がついているので、仰る通りかと」
「だから言っただろうが!お前らが消したんだ!どう責任取るんだ?!」
主人に向けて告げた言葉に、髭男が怒鳴り散らす。賑やかな声に、少し左耳が痛くなった。
「少々こちら、お借りしても?」
「構いませんよ。お心当たりがあればお聞かせいただけるとありがたいのですが」
「もちろんです」
主人が髭男の上司と言葉を交わす。そのまま本を受け取る主人に背を向けて、上司は部屋の入り口に向かう。髭男は悪態を吐きながらも、上司に引きずられて帰って行った。
汚れた床を濡れた布で掃除する。道具の片付けが終わったところ、主人に呼ばれた。
「あやめ。先ほどのこれに、心当たりは?」
「いくつかあります」
やはり、と主人は満足そうに微笑む。棚から大判の写本を数冊取り出して、机に広げた。それを覗き込めば、文字は確かにそこにある。
「この部屋の写本に問題はありませんね。原典も問題ないとのことですし、消えたのはこれを含む数冊、図書館に戻したものばかりですね」
我々の管理下にない書籍の不備を問われたところで、何も答えられない。ただし、それが主人の指示のもと、あやめが写したものとなれば話は別である。
「サラ様、ひとつお願いがあるのですが」
「どうしましたか?あやめ」
「あの時のペンがまだ残っていれば、見せていただきたいのです」
「もちろん。紙とインクもありますよ。そろそろ届く頃です」
扉の方へ目を向けた主人——サラ様に倣ってそちらを見ると、ノックの音が聞こえる。
「どうぞ」
「失礼いたします」
ジアさんの声がして、扉が開かれる。高く積まれた本と小箱を抱えた彼が一礼して、机にそれらを広げた。
「こちらが消えた写本、これは使用したペンとインク、それから紙です。紙については全く同じものを取り寄せました」
「ありがとうございます、ジア。写本はこれで全てですか?」
「はい。どれも図書館で保管していたものです」
図書館にあった、あやめたちが写した写本だけが、まっさらに消えている、ということらしい。どうしたものだろうか。
「インクと紙は外国から取り寄せたもの、ペンは国内で最もよく使われているもの。何も不審な点はありませんね」
「はい。インクの色も十分です」
ペンをインクにつけ、紙に書く。さらさらと流れるように、文字が記される。その香りと手触りに、ふと違和感を覚える。
「ジアさん、これ、ジアさんが使ったインクですか?」
「そうです。私のものとあやめのもの、同じはずではないかと」
「恐らく違うインクです。消えた写本、全部ジアさんのですよね」
「…確かに、私が写した写本ばかりです」
表紙を見て、彼が驚いたように呟く。インク壺に指を入れ、それを舐める。やはり、違うインクだ。
「あやめのインクはこれではありませんか?」
サラ様が戸棚からインクを取り出してくる。確かに、自分が使ったものである。覗き込んだジアさんが、眉を潜めた。
「同じではないのですか?」
「見た目は全く同じですが、まるで別物です。こちらは油、こちらは水で作られたものです」
ペンを2本取り出し、同じように紙に書く。見た目は全く同じため、水と油、違う単語を二つ書き添えておく。
「乾いたら、図書館に持って行ってください。そのまま放置しておけば、自ずと分かるかと」
「図書館に置くことが重要だと?」
「はい。サラ様が今使っている写本も、ジアさんが写したものです。ジアさんが写したもののうち、図書館にあったものだけが消えているとなれば、条件を揃える必要があります」
頷いたジアさんが、それを手に部屋から出ていく。まっさらな写本は、上からあやめが書き直すこととなった。
数日後。ジアさんが持ってきた紙は確かに、片方だけの文字が消えていた。