畏れながらも、奴隷でございます 19
「ゔぉわっ?!」
ぐん、と勢いよく首を前に引かれて転びかける。首輪に繋がった鎖は、身内の手の中にあった。
「一緒に帰ろう。ね?」
「やだよ。帰らない」
「でも、ハナ——」
「帰らないよ」
言葉を遮り、きっぱりと告げる。月が真上から、あやめと彼女を照らす。風が吹いて黒い布を巻き上げる。彼女は、泣いていた。
「帰らないよ。ここで生きるって、決めたんだ」
鎖を掴み、力を込める。
「返して」
首を振り、彼女が髪を振り乱す。帰ろう、一緒に帰ろうと、彼女が崩れ落ちて泣きじゃくる。今更になって気付く。あのとき彼女が言ったのは、謝罪でも感謝でもなかったのだ。一緒に帰ろうと、連れて帰ってみせると、そういう言葉だったのだ。
彼女を呼び、膝をつく。国境を超えて手を伸ばし、彼女を抱きしめた。
「ごめんね」
鎖を掴み、勢いよく身を引く。彼女の側には、わずかに短く、鎖が残った。うまく引きちぎれたらしく、少しだけ安堵する。彼女は目を白黒させた。どうして——その唇が、微かに動いた。
「帰らないよ」
月明かりに照らされて、彼女はいっとう美しく見える。それを見下している自分は、きっと醜いのだろう——そんなことを思う。
「この国で、生きていく。決めたんだ。それに——生きて出られるわけがない。何せ、知りすぎているから」
知りすぎたのだ。あやめは、あまりにも多くを知りすぎている。
スーリー皇国は陸の孤島。それは地理的だけでなく、人為的にも世界から断絶されている。その内情を国外に持ち出すことは、国家にとっては危機的状況を招くことになる。用いられている言語、皇居の間取り、医療水準、町の構造、食文化。この3ヶ月、あやめは色々なことを知りすぎた。人質として取られ、奴隷として引き入れられ、ピアスも与えられた。これを生きたまま外に出すなど、するはずがない。
現に今も、背中から幾つもの殺気を感じる。隣のサラ様、後ろに控えているのであろう、ジアさんとライヤさん、それからターリャさん。鎖を引きちぎるのがあと一瞬遅ければ、殺されていただろう。
「バイバイ」
一歩身を引く。手の中の鎖を、サラ様に差し出す。彼が殺気を解き、砂漠の風が止んだ。
「申し訳ありませんでした」
夜の砂漠で、あやめが深々と頭を下げる。サラの腰に大きな刃物が提げられていることを承知でやっているのなら、その狂気的なまでの従順さを評価すべきかもしれない。
人質は泣き、それでもあやめの意志を理解したのだろう、男に連れられてウルドへ去っていった。それを見送った直後、彼女は国境のすぐそばで、跪いたのである。
「構わない。それより、怪我はないのか?」
半ば強制的にその手を取る。先ほど鎖を引きちぎった掌に、目立った傷はない。ただ、金属の独特の匂いが、その硬い掌から漂ってきた。
月明かりでは、傷の有無を確かめるには心許ない。昼を待って、改めて検分するべきだろう。それにしても、本当に良い拾い物をした。
「怪我はありません。痛みも何も、一切」
「ならば良い。帰るぞ」
黒い布を剥ぎ取り、首元の金具に手を伸ばし、首輪ごと取り外し、布と同じように、スーリーの砂の上に投げ捨てる。ウルドの月に見せびらかすようにして、その髪を退けて、右耳に揺れる赤いピアスを月明かりに晒した。指先で引き寄せ、唇を寄せる。ライヤ達から明確な殺気を向けられたが、気に留める必要はない。これは、俺の所有物なのだから。
額を突き合わせて、真っ直ぐに見つめる。薄い色の瞳が、大きく見開かれる。逃しはしない、両手で頬を包み、しっかりと固定する。
「お前を殺すことはしない。生かして出すこともしない。死の時を迎えるまで、俺に仕えて、俺の役に立て」
「サラ様のお心のままに。精一杯、お仕えいたします」
「それで良い。ならばほら——帰るぞ」
顔を離し、手を引いて立ち上がらせる。髪を戻して、ピアスを隠す。暗い夜に、赤い色はよく目立つ。いつどこで、誰に見られるとも知れない。
「戻るぞ。俺たちの皇居に」
「っ——はい!!」
大きく頷いたあやめが追いかけてくる。その左手を引き、隣に並ばせる。鎖の音はしない。それがやけに、心地よく感じた。