畏れながらも、奴隷でございます 16
国外の人間と接触するから、と首輪を与えられたあやめは、両方の鎖骨にずっしりとした重みを感じていた。獣の皮で作られているらしいそれは、裏に布が貼ってある。そして頑丈な金属の鎖がつけられ、その先はサラ様の手の中に繋がっている。
「例外的な事例です。仕方がないでしょう」
サラ様がキッパリと断言する。ライヤさんがため息をつき、ターリャさんが首を振り、ジアさんが項垂れた。
「行きますよ、あやめ」
ジャリ、と鎖の音を立てて、サラ様が呼ぶ。はっきりと返事をして、こっそり3人に頭を下げ、その背中を追いかけて馬車に乗り込む。扉を閉めると、サラ様が手を伸ばして鍵をかける。窓の外から、ライヤさんがこちらを心配そうに伺っていた。
「こんなにも信じてもらえないとは、主人として悲しいものがありますね」
馬車が動き出して暫く、主人が口を開く。首の鎖は相変わらずその手の中に収まり、馬車の振動に合わせてジャラジャラと音を立てる。心地よい、懐かしい音に耳を傾けていたあやめは、不意に視線を窓の外から主人に戻した。
「サラ様は、サリムの教えをどう思われているのですか?」
「悪いものだとは思いません。ただ、少々——本音を言えば大部分が、ですが——時代遅れも甚だしいですね。これを振りかざすには、時間が経過しすぎている」
サリムの教えは、今から2000年ほど前にとある男がもたらした、神の言葉に基づいている。食や習慣の規定のほか、社会制度に関しても事細かに定められている。それは結婚をはじめとする、男女の関係についても同様である。
「行使するには、世界があまりにも進化しすぎているのですよ」
「世界が進化しすぎた…ですか」
「えぇ。例えば、男の体にして女の心を持つ、というのは、あやめにとっては珍しいものではないのでしょう?あるいはその逆も」
全く珍しいものではない。むしろ、そういったいわゆる『性別』という概念からはかけ離れたところで生きてきたのだ。むしろそれを忌み嫌ってきた、とも言うべきかもしれない。
「あるいは男の体で男の心を持ち、男に恋をする。女にしても同じことです。恋をしないこともあれば、人間以外に恋をすることもある。珍しくもないでしょう?」
「全く珍しくありません。むしろ、私の身の回りではそれらが一般的とも思えました」
「この国では、それは異端——ひどい場合には一族郎党皆殺しにされるほど、稀有すぎるものなのですよ」
どういうことだろうか。人の命を奪うことはなんにせよ重罪に当たる、と教えの書には書かれていた。関わりのない親族を殺すことは、例外に該当するのだろうか。
「この国の宗教には、段階があるのですよ。書物に書かれた教え、知識人が行使する教え、人口に膾炙する教え、個人が容認する教え、個人が実行する教え。すべてが同じだと思いますか?」
「いいえ」
はっきりと首を振る。賢いですね、とサラ様は微笑んで——あやめの好きな顔の一つである——手を伸ばし、そっとあやめの右頬を撫でた。
あやめがいたイバの教育水準は随分と高いのだろう。あるいは彼女が人並外れて賢い可能性もあるが。なんにせよ、話の速い奴隷で助かった。
「人の価値観は様々だ。他国と完全に分断して国が存在できない以上、この体制を保てるのも時間の問題だ」
いつ皇居が落ちるか、皇族が無残に殺されるかもしれない日々。この国が終わる前に、変えなければならない。命は、たとえそれが何であろうと、尊重されるべきものなのだから。
「サラ様は、スーリーをどうなさるおつもりなのですか」
「壊したりなどしない。滅ぼすつもりもない。ただ、変わらなければこの国が死ぬ」
幾千年と続いたこの国を、自分の目の前で喪うわけにはいかない。
「この国が、あるいは街が存続し続けるためならば、国を乗っ取ることも吝かではない」
幾度か素早く瞬きを繰り返したあやめが、ふっ、っと笑った。安堵したように目を細め、恭しく頭を下げる。
「国が滅びても、人は生き続ける…というのは、生温いでしょうか」
あやめが困ったように笑う。首を傾げて肩を竦める。人が生きていたとしても、街がなければ、人は生きられない。口を開きかけたところで、馬車の速度が落ちる。窓の外の景色は相変わらずだが、ゆっくりと馬車が停止した。