畏れながらも、奴隷でございます 12
「ほんとに何もされてない?あの大馬鹿主人に、本当に何もされてないの?」
「触れられたり、言い寄られたり、追い詰められたり。色々されていたじゃないか。本当のことを言ってごらん、怒らないから」
「いやあの、本当に、大丈夫なのですが⋯」
飛び込んできたターリャさんが間一髪、サラ様を引きはがしてくれた。庇うように抱きしめてくれたライヤさんに連れられてキッチンに来てから、かれこれ一時間以上は経過している。
「本当に何もされてないの?指先一つ触れられてない?本当に?」
手を伸ばされた、とでも言えば、今にもそこにあるナイフを掴み取りそうなライヤさんに笑ってみせる。
「本当に大丈夫なんだね?嘘を吐く必要はないし、あるいは、もし思い出したことがあれば、その時にでも言っておくれ」
「ありがとうございます。本当に、全然大丈夫ですから」
姉御肌のターリャさんと、包容力のあるライヤさん。二人は少々どころではなく、あやめに対して過保護な節がある。
「あの色ボケ、とうとうあやめに手を出すなんて、昨日手を切り落としておけばよかったな」
「食事に毒でも仕込んだほうがいいかしら。あやめちゃん、どう思う?」
「いやあの、本当に何もないので、本当に大丈夫ですから」
殺しそうな勢いの二人を宥めているところへ、ノックの音が響く。顔を覗かせたジアさんが、あやめを呼ぶ。
「本当に、すみませんでした。怪我はありませんでしたか?」
「何もないので、大丈夫です。ジアさんもお買い物、お疲れ様です」
「とんでもないことです」
食料の買い出しに行っていたジアさんは、縛り上げられたサラ様を見て、事情を察したらしい。こういうことはよくあるのだろうか。
「頻繁にあるようじゃ、付き合っていられないさ。ただ、この国じゃ特に――あやめには馴染みがないかもしれないが——男女の触れ合いについては、随分と重い意味と規制がかかっているのさ」
やれやれ、とターリャさんが肩を竦める。ジアさんはキッチンに入る素振りを見せず、ライヤさんが4人分のお茶を淹れてくれた。何やら花のような香りがする。
「カモミール。あやめはカミツレという名前のほうが慣れているんじゃないか?」
それなら聞いたことがある。煎じて飲むと気が休まる、薬湯の一種のようなものだ。
「あやめのいたところじゃ薬の扱いになるのかもしれないが、ここじゃ食事や飲み物としてそれが多用されるんだ。ほら、薬膳みたいなものだよ」
「なるほど。つまり日々の食事に薬膳や薬湯が多用される、ということですか」
「そのとおり。おかげで医者の仕事が少なくて困るよ」
そう、ターリャさんは医者である。サラ様の侍医のような扱いで、倒れたあやめを診てくれたのもこの人だった。
「ところで、この国は男女の触れ合いについて、厳しいんだ。宗教的な理由で、ね」
カモミール入りの紅茶を一口含み、ターリャさんが口を開く。それを聞いているライヤさんが頷いて、それに続けて言う。
「古い考えだと揶揄されるものだけど、男女の役割が明確に分かれているの。それから異性同士の触れ合い、さらには同じ部屋にいることもかなり厳しい扱いを受ける。血縁を介する身内あるいは夫婦関係にある場合を除いては、邪なものとして排除されるべき、というのが一般常識なの」
「未婚の男女が触れ合うなんて正気じゃないとされる。同じ部屋にいることはもちろん、一緒に出掛けるなんて以ての外。昨日の話を聞いて、腰が抜けたよ」
随分と厳しいことになっているらしい。
「もちろん、否定する者もあるし、教えを守らないことも日常茶飯事さ。私だって、大して信じちゃいない。ただ、ここは皇居だからね。スーリー皇国の皇族が住まう場所で、国教とされるサリムの教えに従わないことが何を意味するのか、あやめでも分かるだろう?」
「とてもよく、分かりました」
深く頭を下げる。男女の垣根をはっきりさせることが、ここでは大切らしい。それならば、女のくせに出しゃばるな、と怒鳴りつけられたことにも納得がいく。理不尽に見えて、あの言葉はとても理に適っていたものなのだと、今更理解する。彼にしてみれば、女は貞淑で思慮深く、男に対して遠慮しながら、家にいるものなのだろう。
「だから、ジアさんはキッチンに入らない、ということですか?」
「その通りです。もちろん、重たい料理を運ぶなら別ですが、今はそういった用事もありませんので」
入口に凭れたジアさんを振り返れば、彼は静かに頷く。これは、考えを改めるべきだろう。
「サリムの教えの本?」
「はい。色々と気になったのですが、ありませんか?」
「ないことはないですが⋯さては、ライヤ達ですね?」
肩を竦めて、返答に代える。食事の支度をする間、休んでいるように言われたあやめは、主人の居間で本を読んでいた。戻ってきた主人に尋ねると、怪訝そうな顔をされてしまった。
「イバとは違うことが多いですし、この先何があるかも分からないので、簡単にでも読んでおきたいのですが」
「分かりました。それなら明日、ターリャを連れて、買い物に行きましょう。いいですね?ライヤ」
入口を振り返るサラ様の視線を追いかけると、ライヤさんが頷いた。