夜叉(ヤシャ)3
「沙羅ちゃん……沙羅ちゃん……」
その甘やかに響く美声で、微かに鼓膜が揺れる。
この声は…………
鏡面には、透明な漣が沸き起こり、絵の具を垂らしたかのような鮮やかな赤色と白色が混ざり合って、ぼんやりと浮き上がった。
その色は徐々に鮮明な像を結び、艶のある美しい白髪と、血のように赤い瞳を映し出す。
牛頭とよく似た面差しの、品のある美麗な女性。
「馬頭さん……」
そのゾッとするほどの美しさに、何度見ても見蕩れてしまう。
鏡面に映る馬頭は、私を見てにっこりと微笑んだ。
「うふふ、聞いてちょうだい。
いい作戦が…………」
その瞬間、私の背後から何かが伸びた。
「っ!」
「えっ!?」
馬頭の表情が苦痛に歪む。
鏡面の馬頭はその右手首をギリリと強く掴まれていた。
その手首を掴んでいるのは……
「やぁ……久しぶりだね、馬頭」
背後から降ってきた低い声に、心臓が飛び出そうになる。
視界の左側から伸びる包帯だらけの腕を辿ると、やはり背後には牛頭が立っていた。
「ひっ!いつの間に……」
牛頭は私の背後から手を伸ばし、鏡面に左手を突っ込んで馬頭の手首を掴み上げている。
鏡の中に……手が入ってる…………
その状況が全く理解出来ずに、私は牛頭と馬頭を交互に見るしか出来なかった。
ただ、今とても緊迫した状況であることは、なんとなく解る。
「夜叉に伝言をしておいたんだけど、伝わってないのかな?
僕は、厳重注意をしたつもりだったんだけど。
沙羅に近づくなって……さ」
牛頭の表情はいつも通りなのに、その口調や言動はかなり重い。
だからこそ、いつもよりもずっと怖い。
「牛頭の思い通りにはさせないわ。
沙羅ちゃんは、不自然な手続きで無理矢理連れて来られた。
返してあげるのが、道理じゃなくって?
それに私には、牛頭の言うことを聞く義務なんて無いわ」
牛頭のただならぬ雰囲気に屈せず、馬頭は余裕の表情を浮かべながら毅然とした態度で接している。
表情こそ柔らかいものの、猛々しく並び立つ虎と龍のように、その眼光はお互いに強く鋭い。
「馬頭…………最後通告だ。
沙羅に手出しをしないで。
……僕だって、一人目の夜叉のようにはしたくはない」
「っ!」
すると、弾かれたように馬頭の表情が変わった。
取り澄ましていた馬頭が初めて見せた、強い動揺。
大きくまん丸に見開かれていく赤い瞳に浮かんでいるのは、激しい怒りと憎悪の色。
唇を噛み締めて、怒りが燃え滾るような赤い瞳で、牛頭を睨みつけていた。
「貴方が、殺した。
私の可愛い夜叉を………………」
夜叉を殺した……?
牛頭が…………?
でも、昨日普通にいたはず………………
いや、さっき『一人目の夜叉』って……………………
どういうことなの?
「絶対に許さない………………
絶対に…………」
呪詛のように、それは重々しく響いた。