馬頭(メズ)8
夜叉のいなくなった後の湖は、怖いくらい静かだった。
赤や橙の紅葉の景色の中の静かな湖畔で、その透き通った瞳にじっと見つめられている。
「沙羅、こっちにおいで」
包帯で巻かれた手を差し出されて、どうしてだか胸が苦しくなった。
湖の中から、牛頭を見上げる。
黒く濁った湖の色。
牛頭に呪われている。
その夜叉の言葉が気になって、そばに行くことを躊躇ってしまった。
「どうしたの?」
牛頭の目はただただ優しい。
だから、やめて欲しい。
「大丈夫、一人で上がれるから」
御神酒で溶けてしまった手を掴むことなんてできない。
――ザバっ
湖から上がると、吹き付ける風に冷やされて、さらに寒くなった。
「ううっ」
タオルがないと、寒さでかなり厳しい。
「寒いね、暖かくしようか」
「あ……」
手を引かれて、牛頭の胸に飛び込んでいた。
背中に腕を回されて、ぎゅっと抱き締められる。
すると、自分の周りに霞が掛かったように、視界が白く染まった。
「え…………!?」
まさか、私も消える…………?
駅で会った人達を思い出して、牛頭にぎゅっとしがみついてしまった。
そんな姿を見て、牛頭はくすくす笑う。
「ふふ、大丈夫だよ。
水を払うだけだからね」
「え……あ……」
水を……払う……?
言われて見ると、アイロンを当てた時みたいに水がどんどん気化していくのが見えた。
そんな不思議な光景に目を奪われる。
「少しじっとしていて、じきに暖かくなるよ」
牛頭は私の肩や背中をさすりながら、低音で優しく囁いた。
「うん……」
びっしゃりと濡れて重かったワンピースも、どんどん水気を失って乾いていく。
…………やっぱり、人外なんだ。
そう実感すると共に、どこか胸の奥に痛みが走った。
私は………………ここにいてはいけない。
元の世界に強く戻りたい理由がある。
強く願う何かがある。
だから、流されてはいけない。
髪の毛まで綺麗に乾かしきると、牛頭は私の耳の辺りに手を添えて、上を向かせた。
「…………沙羅」
至近距離で目が合った。
その淡い色の瞳に、私が映っている。
「元の世界なんて捨てて。
この世界で僕と生きよう?
痛いとか苦しいとか、言わせないから」
囁かれる誘惑に、抗いがたい気持ちが募る。
でも、それは出来ない。
「私は、元の世界に帰っ…………ケホッ。
コホッ、ゴホッ」
乾いた咳が出た。
「沙羅、大丈夫?」
「ケホッ……声……で……な……ケホッ!」
乾燥から咳き込んでしまい、声が出せない。
「ああ、ごめん乾かしすぎたかな。
すぐに水を飲もうか」
牛頭に手を引かれ、歩き出した。




