第4節 その2 二つの睡眠薬
広場までちょうど半分。
役場の前を通り過ぎようとしたとき、先生の顔がよぎった。
あれから勉強を一所懸命教えてくれる先生。
同じ魔族だから、小さな子供だからか、それとも貧乏な私たちに対する同情なのか、とても懸命に文字や言葉を教えてくれる。
そして、勉強の合間にいろいろなことを教えてくれる大好きな先生。
今はもう寝ているのかな。
「先生。
私今とてもつらいよ。
先生。
助けて。」
思わず、毎日通うこの役場への道を通る時、そんな弱気な声が漏れてしまった。
「マテリア。
分からないことがあったら、先生に相談しないさいといつもいっているじゃろ?今日はどうしたんじゃ?」
なんと役場の前を通り過ぎようとすると、先生がまるで待っていたかのように、そして、今呟いた小さな悲鳴を聞き届けたかのように先生は私の前に立っている。
「ほら、こちらへ来てわしにすべて話してごらん。
なにをそんなに急いでいるのか分りかねるがのう。
じゃがのう、『いそがばまわれ』という言葉もあるんじゃよ。
教えていなかったか?」
先生は落ち着いている。
そんな先生を見てほっとしてしまう。
いつも先生は頼りになる。
信じよう先生を。
絶対なんとかしてくれる。
応えてくれる。
マテリアは、先生のもとへ飛び付き、息を切らしながら、いきさつを話した。
コースケがいつも咳き込んでいたけど、今日突然血を吐いて倒れてしまったこと。
コースケは病気じゃないといっていたけど、とても苦しそうだったということ。
今から医者に行こうと中央広場へ急いでいたこと。
「それは呼吸器系の病気じゃ。
しかももうかなり深刻な状態とみえる。
中央広場の医師は外科や内科の大部分はわかるし対応もするじゃろうが、まず十中八九、その状態のコースケを診てもらっても、なにも施すことはできん。
わしものう、専門は違うが医師として働いていたときもあるからわかるんじゃが、問題は進行状態じゃ。
とりあえずわしが診るとしよう。
それが今おぬしにできる最善策じゃ。
そして、それでだめなら運命として受け入れる勇気を持ちなさい。
分かったら、わしの机から、茶色い鞄を持ってきておくれ。
診療道具が入っているからの。
その間わしは痛み止めを用意しておくから。」
落ち着いて先生は私に指示を出す。
私が呆然としていたら、
「返事は?わかったかい?」
先生が私に返事を促す。
「はっはい。
わかりました。
先生」
なんとか自分を取り戻して返事をする。
「マテリア。
大丈夫。
おぬしが頑張っている今をきっと神様は見ているし、応えてくれる。
じゃから今は急ぐとしよう。」
優しい先生の声がする。
「先生!うん!」
私はもう悩まない。
先生を信じて今できることをする。
急いで役場に入り、先生の机から茶色い鞄(今まで何が入っているか気になっていたけど、こんなときにわかるなんて)をとり、
先生のところへ戻る。
先生はすでに薬を別の場所から持ってきたらしく、入口で待っていた。
「さあ、急いで行くとしよう。
わしはこう見えて歩くのは早いぞ。」
頼もしい味方である先生を連れて、家に帰ってきた私は、コースケがまだ生きていることだけを祈りながら、ドアを開けた。
「ゴホッゴホッ・・・・・・ゴホッゴホッ」
苦しそうに咳をするコースケ。
でもまだ生きている。
ベッドに新たに血を吐いた形跡はないので、眠りからは覚めてしまったようだけど、最悪の事態までいっていない。
しかし、先生が言った言葉はそんな私の素人診断と全く反対だった。
「これは本当にひどい状態じゃ。
良く今まで、こんな状態になるまで、我慢していたのう。
ものすごく痛いじゃろうに・・・・・・。
このままでは、間違いなく死んでしまうぞ。
おそらく肺に悪い腫瘍があってもう限界じゃ。
薬はもちろん、手術をしたところで、とてもこの国の医学では対応できん。
きっと帝都の最高の医師でも五分五分じゃなかろうか。」
気が遠くなる。
コースケが死んでしまう。
ああっなんということだろう。
せっかくできた家族。
これから一緒に幸せになることを誓った大好きなコースケ。
もし許されるなら、お嫁さんになりたいと密かに思いを寄せていた。
コースケは自分のことを妹ぐらいにしか思っていないし、自分も恋愛なんてまだ良くわからないけど、コースケのお嫁さんになりたいという未来の自分の姿を夢見ている。
そんな夢が跡形もなく崩れ落ちる。
ついさっき、コースケの指輪を、家族の印をもらったばかりなのに。
「・・・・・・リア」
マテリアは呆然と立ち尽くしている。
「・・・・・・マテリア」
「マテリア!」
先生の大きな声で現実に引き戻される。
「落ち着きなさいマテリア。
よいか、コースケは確かにまずい状態じゃ。
本当に生命をなくす一歩手前かもしれん。
じゃが、良いかマテリア、まだこの子は生きているんじゃ」
「まだ生きている・・・・・・」
うつろにその言葉を反芻する私。
「そう死んではいないんじゃ。
死んでしまったら人は生き返らん。
これは100%間違いがない。
じゃが、生きている人が助かる可能性は、0%じゃない。」
可能性がある。
そう今コースケは生きている。
ああ、この頼りない横顔と、いつも困ったような顔をする、つらいことに耐えられるだけが取り柄みたいな人だけど、私にはとても優しい人。
いなくなってしまったらどんなつらいだろうか。
でも、この人はまだ生きている。
「それにこの子はちょっと人間といっても違うようだから、もしかしたら助かるかもしれぬぞ。
まずわしがこの薬を飲ませて、咳と吐血を止める。
鞄に睡眠薬が入っているから、それで寝かしつけるとしよう。
それで一時的に進行は止まるじゃろうて。
じゃが、それはあくまでもごまかすだけじゃ。
人間の体を一瞬だけ病気じゃないように、ごまかすだけ。
体はすぐにそれに気づいて、また病気が悪化していく。
だからそのごまかしが効いている間に次の手を打つんじゃ。
さあ、まずは薬を飲ますぞ。
手伝いなさい、マテリア」
先生は、コースケの口に2つの薬をのませ、私はそのあと水を飲ませた。
口を無理やり開けさせ、気道を確保しつつ、薬を流し込む。
一瞬、コースケはむせたが、しばらくして、ばったりと寝てしまった。
咳が止まって楽になったのだろう。
ああ、こんなに静かなコースケをみるのはどれくらいひさしぶりだろう。
おそらく一日前には見ているだろうが、ずいぶん昔のことのような気がする。
「これでよし。
次はぬしじゃ。
これを飲みなされ。」
先生は私に錠剤を一粒くれた。
すぐに口に放り込む。
「先生これ・・・・・・は・・・・・・?」
急に顔がほてり、しばらくして強烈なめまいが襲ってきた。
私はばったりと先生に向かって倒れこんでしまい、意識を失った。
「ほんの少しだけ眠りなさい、マテリア。
おぬしは、これから重大な決断をしなければいけない。
いえ、多分その答えは決まっておる。
そして、その結果、先ほど懸命に走り続けた苦労が散歩程度だったと思えるような試練が待っているのじゃから。」
老婆はそう、呟きながら、ぐったりと倒れた少女、孫のように愛おしい、その愛弟子をベッドに寝かしつけ、頭を撫で続けるのだった。