第1節 その1 光介の家出(いつもの)
「・・・・・・(バフッバフッ)・・・・・・」
腕の真ん中あたりに口を充てて、咳を押し殺す。
音を出さないように懸命にこらえるが、どうしても咳き込んでしまう。
大きく息吸い込んで、その空気をゆっくりと吐き出したりして、なんとか咳がでないようにするが、どうしても定期的に出てしまう。
そういう時は、音を極力出さないようにするために、腕で口を押さえこむのだが、体全体から音が出てしまう。
ふすまの向こうから、自分に対する怒声が聞こえる。
ゴソゴソと動く音に加え、不自然な空気の破裂音が、耳に障るのだろう。
ここは6畳しかない自分の部屋。
といっても自分専用ではなく、兄2人と共用のため、僕の占有スペースと言えるのは、布団1畳分と家に1つだけある勉強机の一番下の段の引き出しだけである。
今は、その部屋の隅の方に布団を敷いて横になっている。
まだ20時を回ろうかという時間なので、眠るには少し早い。
だけど僕は布団に入っている。
ふすまを隔てた《お茶の間》にいる養父が飲酒している時は、いつもこうして早めに布団の中に潜りこみ、大人しくして、いろんな嫌なことをやり過ごすようにしている。
養父は酒乱で、今も養母に対し本当にどうでもいいことで腹を立てて怒鳴りつけている。
一度怒鳴り出すと止まらず、何時間も怒鳴っているような気がする。
僕から見ると常に何か文句をいうことを探しているのではないかと思えてくる。
そんなときに、僕が音を立てたりして養父の注意をひくようなことになると、いつも理不尽な攻めを受けることになる。
それは、子供の僕とってはとてもつらく・悲しいことだった。
大きな声を出されるだけでも怖いのに、いつまで続くかわからない怒鳴り声と暴力(蹴られたり・踏まれたり)に怯えることになる。
そんな時は、歯を食いしばって体を丸めてとにかくやり過ごすしかない。
養母も止めてはくれるのだが、それがさらに養父を激情させることになり、余計つらい思いをするときが多い。
年の離れた兄2人は普段は遅くまで働いており、この時間にはまだ不在だった。
これ以上咳が我慢できそうにもないと判断した僕は、養父がトイレに行ったのを見計らって、そっと家を抜け出した。
養母はそんな僕を気遣って、無言でいてくれている。
この2K(二部屋の和室と台所だけ)の市営住宅は、ふすまを開けば玄関まですぐそこだ。
ジャージ上下姿で靴を履き、リュックサックを片手にそそくさと家を出た。
僕はいつもの秘密基地に向かった。