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歴史とDNA

物部氏と出雲王朝

作者: とびうお君

 いろいろ考えると神武天皇って出雲系なんじゃない?って思えてくる。それにはいくつか理由があって、ヤマト政権って大半出雲系だから。多分九州系だろうなっての藤原氏ぐらい。安曇氏は微妙、元は多分出雲系。安曇氏は呉直接、徐福系じゃないか?と言われてる。私が以前から書いてる漁労民になる。


 私が想定する漁労民は国を意識し無い。理由は、直接ルートじゃなくて、半島の海岸沿いルートをのんびり上がってきた系統だと見てるから。直接来る場合はやはり呉の滅亡による難民のケースだと思ってる。徐福ってのはモデルに過ぎなくて、いくつかは、江南から進んだ中国の文明を使って支配者層になっていたグループが居たと見ている。この場合呉の滅亡の難民ってネガティブな流れとは違う。コテコテのなろう小説系と似た俺SUGEEEな話になる。


 そのため北九州に根城を置いてるが、単純に天孫側か?と言うとなんとも言えない。その前に海人連合に属してるはずだから。クナド出雲王朝はあったか?がかなり厄介な事になる。これちょっと弱いと思うのは、緩い海人ネットワークや血縁関係は前からあったと思う。だが、後の出雲王朝ほどか?と言うと多分そこが甘い。


 考古学的にいろいろ見つかってるのは一つの集合としてのまとまりって点で出雲は古代から発達していたなんてのは全く無い。系図的にスサノオと大国主の関係で成り立ってしまう程度の歴史の浅さしか感じない。クナド王朝と言うのは、単にそこに一族として他とは違う海人的な一族が住んでいただけの小国家なのじゃないか?と思う。分かりやすくいえば3韓時代の群国家になる。


 猿田彦かもしれないC1A1と言う特異なハプロを持つクナドを中心とした王国はあったのかもしれないが、多分すごく小規模。そもそもこのC1A1が胡散臭いというのがある。ただ神社の中で猿田彦神社は子孫がそのまま氏族名を名乗ってるのである程度は信頼できる。何時の時代か?忘れたけど、神社の世襲は天皇家から直接絶対じゃないと否定的に扱われたから。


 何の都合があったのか?は分からないが、神社の世襲は大半の神社でかなり前に終っている。だから古い神社でもその辺りかなり慎重に調べないと不味い。


 後の天皇家と違って、スサノオによる天孫降臨と言うより、海人達がスサノオを中心にまとまっただけだと見ている。この辺り単純に騎馬民族的に見たら駄目だと思う。


 そうそこなんだ。明らかに感じる扶余族、中国北方の流れ。でも日本において古墳時代、騎馬戦闘がかなりアホくさいんだ。日本で騎馬戦闘が本格化するのはいつなのか?はかなり難しい。後年の武士のスタイルが出来た理由は蝦夷との戦闘による接触にある。有名なアルテイってのはとんでもなく強い。


 桁違いの強さがある。圧倒的な戦力差と坂上田村麻呂と言う有能な将軍じゃなかったらかなりやばかった。その原因は、東北独特の日本海ルートにある。日本で騎馬戦闘を騎馬民族に近くやったのは蝦夷なんだ。もちろん日本人も当時は馬に乗っていた。だがそれは時代のせいが大きい。かなり後の時代なので馬の生産が追いついてきたから。


 でもかなり後の時代でも、根本は馬は見栄えを良くするステータスの意味が大きかった。さすがに元漢の系統ならそこは違うと思うが、それでも騎馬民族に近い戦闘をする蝦夷と比較すると全然。しかも騎馬民族ともまた違う。蝦夷は蝦夷で独自に編み出した部分もある。騎馬民族が得意とする集団騎馬先頭と機動力って戦い方じゃない。


 これについてはツングース系は特殊だったのか?ならありうる。広大な平原での戦闘とはそもそも山がちな満州で発達したもので多分違う。ただ満州は農地に適した場所も多いらしいので、その辺り単純に日本と同一視は出来ないけど。どちらにしろ馬を使ったメリットをいかした戦闘があったのか?で、坂上の田村麻呂の時代でもかなりあやしい。


 プンプン匂う騎馬民族の血統。でも肝心の戦闘スタイルが全く違う。あまりに違いすぎる。


 やっぱ神武天皇スサノオの女系子孫で、出雲王家なんじゃない?となってしまう。私騎馬戦闘って意味では、神武天皇はそういった戦闘とは全く関係が無いと思っている。じゃ一体?おそらく婚姻関係や騎馬戦闘を来たとしても捨ててると思う。北方からの流れの大半は金属加工だと言って良い。


 一番私が重視してるのは、半島にあった群国家で起きていた戦闘状態と似てて、北九州の連中は好戦的だって点だけになる。これを単純に騎馬民族が来て支配者になったってのはシンプルすぎると思ってる。騎馬民族が主導権を握った半島での戦闘の影響が北九州に間違いなく出ている。


 これが天孫族の文化の違いだと見ている。血統的な問題は金属加工集団になる。これ最大の問題が解けた。何故当時最先端だった中国じゃなかったのか?なら、これはハイエースで解けるらしい。海外でハイエースはやたらと人気が有るらしい。日本のハイテクを搭載した今の車はメンテナンスの点でとても扱いにくいらしい。


 そういったものはあくまでそれを直す修理工場とセットになったインフラコミのハイテクなんだという事。0から金属加工をインフラとして作り上げようとするなら圧倒的にやや特殊な殷の流れに近い中国東北の金属加工はとても日本にマッチしたらしい。しかもこの流れ時代が進むと、中国南方や、中国の王朝とのやり取りに変わっていく。


 次の問題として鉄に関しては、とても高い水準にあったと言うのがある、青銅器と鉄がほとんど大差無い時間でやってきたのが大きい。これも青銅器と全く同じ流れで、結局は中国王朝とのやり取りも増えていくことになる。


 中国の東北部の扶余族が居た辺りの金属加工はとても日本にとってありがたいものだったって点。日本人の遺伝子が偏ってるのはここにある。偏りというのは中国から半島のルーツを探ると、大量の移民があったのに、西方の華人の系統が皆無に近い点になる。ここから騎馬民族というよりは金属加工の集団がやってきて、特に鉄器に関する集団が大きく関係している。


 青銅器自体は出雲もそれなりには発達していたから。


 騎馬民族=騎馬戦闘は単純すぎると考えだと思う。遺伝的な微妙なものだが、新しい集団であったのは確か。これに、出雲王朝は弥生人との混血割合が若干少なかった点が大きい。ただ有名な山陰での戦闘の証拠としての遺跡で、D4ばかりmtDNAが出ている。これは変じゃないか?とは思ってる。


 出雲王朝は今よりももっと縄文系が濃いのが予想できる。なのに大半がD4系なんだ。当然北九州と出雲の戦いと見て良い。北九州はベタベタなD4集団だろう。だが戦いは互いがいてになる。しかも出雲は攻撃された側で戦士ばかりじゃない住民が殺されてる。なら出雲の住民がD4系がかなり多かったとなる。


 ただ出雲王朝も地域差があったと思う。北九州に近いほど当然D4の割合は高くなると思うから。それに根本的には弥生人同士の戦いなんだ。縄文系と弥生系の混血割合が違っただけで。


 そもそも何故日本が半島で暴れていたか?で水軍と数に任せた歩兵の戦闘が大きい。後の時代もこうで、これを改善しようと後でさらに馬を増産して騎馬戦闘をとかやってるんだから。騎馬民族の戦闘なんて天皇政権が確立しても多分無い。


 義経が何故ああも天才的指揮官になれたか?で彼は幼い頃東北に行ってる。そこで学んだとあったが私は何のことだと思ってた。だって東北は当時すで負けていたから。だがアルテイと日本軍の数の差を見たら。日本くそ弱いと知った…。中国もすごく当時の日本を馬鹿にしてて、後の時代にモンゴルに進言してて、昔ぼろくそに打ち負かしたけど、あの当時と全く比べ物にならないぐらい鎌倉の日本の兵士はとんでもなく強いと。


 これがすべて後の沿海州の騎馬民族と接触のあった蝦夷が生み出したローカライズした騎馬戦闘を日本人が学んだ部分が大きい。後は騎乗戦闘、歩兵の刀もそこがルーツになってる。何故日本で刀が発達したのか?で槍などような両手武器より片手で切れる刀が発達したのと、つくじゃなくて切るの方が馬上のすれ違いの攻撃としては良かったからになる。


 北九州勢力は騎馬戦闘なんて一切使ってない。


 それでも私は遺伝子の流れから、やはり天皇家は出雲じゃなくて北九州川だったと見ている。あらゆる状況証拠は神武出雲側だと見たほうが合理的じゃない?と見てる。そのすべてのややこしいからみあいをとく鍵は物部氏になると思ってる。もっと言えばニギハヤヒにある。


 これは多くの人が指摘してるが、ニギハヤヒは出雲側だったんじゃないか?と言われている。ニギハヤヒの降臨とは、出雲側のヤマト支配にあるんじゃないか?と見ている。


 どういう理由か?分からないが、その後何故か?天孫側についたんじゃないか?と。ニギハヤヒが一人の人物であったか?は分からない。だが彼は九州の人間だと断定されたわけじゃない。西からやってきたとあるだけで、どこだったか?は良く分からない。案外出雲領域の瀬戸内の人間だった可能性もある。


 系図がやや雑らしいので、始祖とも言える人が2人以上居て時代がズレテル可能性はある。


 海部氏と物部氏は本当に別系統なのかもしれない。ニギハヤヒ=ホアカリで片付けてる人も多いが、それを言ってるのは物部氏自身が記した書物で他は言って無い。むしろ物部氏は天孫族じゃないって明確に天皇家に否定されてる。西から来たのは確かだが、果たして九州勢力だったのか?は怪しい。


 問題はD1b1c1=物部氏。これ。私もこれ胡散臭いと思ってるんだよな。遺伝子と歴史ってアプローチの根幹が壊れてしまうんだけど、データに差があるのは確か。どこが問題か?と言うと実は奈良でこれ0%なんだよな…。ちなみにこれどの県も高くは無い。だがごく少数のハプロってほどじゃない。


 物部氏が蘇我氏に負けたのがすごく大きいんじゃないか?と見てる。それなら胡散臭くない。ランダムドリフトやデータの取りかたでこれぐらいの誤差は平気で出る。そこで物部氏ってむしろ全国に影響力があって、本家がいる奈良で逆に消えてしまったんじゃないか?と見てる。


 私は物部氏が天孫族じゃないってのがずっと引っかかってて、そもそも海部氏の繋がり、九州から来たとの話とか全部何かずれてるんじゃないか?と見てる。物部氏と海部氏、尾張氏は確かに同族と見られるのが多い。だがその根拠って古代の政治関係と、ニギハヤヒ=ホアカリって物部氏が自分で言ってる自称の系図のせい。


 神武天皇よりも、私はヤマト王朝の奇妙な出雲系の多さは物部氏こそがキーだと見ている。ニギハヤヒの功績が神武天皇と今度するように多分見える。それが神武天皇は実は出雲系なんじゃないか?って話しに繋がる。これ偽書に出てる話でも支持者がそれなりにいる。だが私は違うと思うんだよな。


 多分それニギハヤヒだと思う。


 多分これ源平の戦いにすごく似てると思う。源氏と平氏の戦いじゃない。実際は坂東平氏を含めた関東VS関西の戦いになる。ただ関西は平氏が源氏を締め出してしまったためにこうなっただけ。


 血統によって、単純化すると良くない。出雲血統でも北九州勢力側はありうる。それよりもニギハヤヒが何故折角握った大和の征服を神武に渡してしまったか?になる。ニギハヤヒが九州勢力の先兵隊ならこれがわかりやすいんだ。そこがすべてはニギハヤヒだと言うことに繋がる。だがニギハヤヒからプンプン匂い出雲勢力の影。


 ハプロがあまり信用できないので本当はスサノオの血を引いてるんじゃないか?とも考えてしまうから。その点天皇家はハプロが信用できるのが大きい。スサノオの血を引いていても多分女系。ただ世間的認知は養子として直系で見られてる可能性がある。


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