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なみだが 落ちる
わたしの
心を
愛を
悦を
哀を
愉を
とうめいの布で包んだ なみだが
抵抗もなしに
ただ虚しく
あなたの頬を伝ってゆく
しんごうのない
重力のせかいに
ただ虚しく
溢れおちてゆく
────────
「うっ…」
目を開けようとすると、眩い光が矢の如く僕の目を突き刺した。雨の音はしない。どうも今日は晴れのようだ。
時間をかけて、目を開ける。辺りは白色に包まれていた。日光がカーテンを突き抜けて、室内を明るく照らす。梅雨時の晴れは格段に心地よいものだ。空が明るい。それだけで、心は透明になる。
だが、今の僕にとってそれは束の間の快楽でしかない。窓の外を見、身体の芯まで透明になろうとも、振り返ればまた、それに背を向ければまた、僕は灰色に染まってゆくのだった。足下にある僕の『影』を僕は常に踏みつけているわけだが、そいつこそが『僕』であるような気すらする。
僕の隣に彼女はいなかった。時刻は九時二十三分。彼女はとっくに出勤しているようだった。
「痛っ」
上体を起こそうとすると、身体に電流が走ったかのような強い痛みを感じる。昨晩の久方ぶりの行為がたたったのか、全身筋肉痛になっていた。全く力が抜けてしまう。高校卒業以来運動も殆どしていないから筋肉痛になるのはおかしくないし寧ろ妥当だが、それでも嫌な筋肉痛だ。これからしばらくの間こいつと付き合っていかなければならない。
「…めんどくさい。」
僕はなんとか枕元にあった目薬を掴むと、両目にいつもより多くの量をさした。溢れ出た液体が、頬を伝う。目の奥に、染み渡る。
僕はため息をつくと、筋肉の痛みに堪えながらゆっくりと起き上がった。上体を起こすので一苦労だ。再びふう、とため息をつくと枕元に畳んでおいてあった服を時間をかけて着る。およそ昨晩脱ぎ散らかしたものを、今朝彼女が畳んでくれたのだろう。
異常なまでに、彼女は僕を求めた。
何度頂上へ達しても、どんなに体力が疲弊しても、彼女は僕を求めた。僕の名前を呼んで、僕を力いっぱい抱き締めて、そして僕のあらゆる所に痕を残していった。ここまで激しかったのは過去に類を見ない。
何故?
彼女は僕に愛してると言った。僕が欲しいと言った。僕が必要だって、そう言った。
わからない。
元々僕は鈍感だが、でもどうしてここまで僕のことを真摯に思ってくれているのか、もうわからなかった。
──私を護ってくれるって、いったじゃん。
僕の上に馬乗りになった彼女はそう放った。
確かに、僕は天に誓った。けど…
「……僕は還元してやれない。」
『自分』を見たくなかった。自分という存在を認知したくなかった。僕は、屑だ。
ふと床に目を見遣ると、僕の『影』が僕を嘲笑うかのようにそこに存在していた。疎ましくなって、僕は寝室をあとにした。
リビングのテーブルにはラップのかけられた朝ごはんのプレートが置いてあった。
サラダに、トーストに、目玉焼きに、昨日の鶏ガラスープ。そういえば昨日、おかわりしなかったな。昨日のことを回想しながら席につくと、小脇に『スープは温めて食べてね』のメモがあることに気付いた。僕はそれから目を離せなくなった。
お世辞にも綺麗とはいえない、走り書きの跡。そのメモを見ただけで僕は、今朝の彼女の様子を易々と想像できた。
ちゃんと電車間に合ったかな?
病院に遅刻しなかったかな?
途中で財布落としたりしていないかな?
僕の脳内で、言葉の渦が轟いている。僕は彼女のことで頭がいっぱいになっていた。脳が激しく痛む。いてもたってもいられなくなり、僕は席を離れると身支度を整えて外に飛び出した。もはや筋肉痛は、脳の痛みに比べれば幾分もましであった。やがては筋肉痛があること自体忘れてしまっていた。
「あ、暑い…」
蝉が唸る。僕の根底に、奴の唸り声が響き渡る。
本能的だ。理性のある、回りくどい人間に比べて奴らは真っ直ぐだ…。
僕は空を見上げた。青々としてこれほどだだっ広い空を見たのは何日ぶりだろう。ずっと見つめていると、吸い込まれそうになる。
実に、僕は久方ぶりに外に出た。なんせ常に部屋に籠ったまま殆ど出歩くことはなかったから、外というものを感覚的には数ヶ月ぶりに体感していた。そのせいだろうか。外の暑さをも忘れている。昨日の雨のせいで今日は湿度が高い。Tシャツ一枚にハーフパンツという薄着でアパートを飛び出してきたが、早くも汗ばみ始めていた。
「どこにいこう。」
行く当てもなく、僕は歩みだした。少し行けば、公園があったはずだ。取り敢えずはそこへ向かおう。
地面を蹴って歩く、ということすら御無沙汰しているようだった。久しぶりに生きていることを実感した。アスファルトを、踏む感覚。日光が、肌に降り注ぐ感覚。頬に当たる、穏やかな風の感覚。それだけではない。土手を流れる水の音、走り去る車の音、夏の草木の強烈な匂い、色鮮やかな外の世界。僕には何もかも久しぶり、というよりはもはや新鮮に感じられた。外の世界の美しさを、全神経で味わっていた。呪縛から解き放たれた解放感。それが束の間であるとわかってはいたが、既に脳の痛みは拭い去られていた。
公園に人はいなかった。当たり前だ。今日は平日。そもそも僕がこんなところにいる方がおかしい──その『背徳感』には慣れてしまったが。
僕は日陰にあるベンチを見つけると、倒れ込むように腰を下ろした。ふう、と息を付き、ポケットから取り出した目薬をさした。両目をゆっくりと閉じる。
涼しげな風が、僕の汗ばんだ身体を通り抜けてゆく。僕の心を、透明にしてゆく。僕の罪を、洗い流してゆく。無限の音が、耳に響く。不思議と脳内で犇めくことはなかった。僕は何も考えずに、ただ時を過ごした。
時はゆっくりと、刻まれてゆく。
「あんちゃん、あんちゃん」
不意に呼ぶ声がする。
誰だ?
「あんちゃん、こげなとこでなんしちゅう」
「なあ、風邪ひくぞ」
「あんちゃん、起きちょって」
段々はっきり聞こえてきたその声は、どうも子供のもののようだ。僕は重い瞼を開いた。
「お、あんちゃん起きた!」
「…え?」
我に返った僕は突然立ち上がると、急いで辺りを見回した。
雨が、降っている。
先程までの快晴はまるで虚構であったかのように空は灰色に染まり、小粒の雨が蕭々と降り注いでいる。降り始めてからだいぶ経っていたのか、僕の服は上下ともにだいぶ濡れていた。
「あれ…、僕……。」
必死に思い出す。そうだ。心地よい公園のベンチに座って寛いでいた…そしてそのまま寝ていたのだ。だが何故雨に気付かなかった?僕はそんなに深く眠っていたのか?
公園の時計は既に十一時二十分を指していた。僕は一時間以上ここで寝ていたことになる。そして天候も、およそ一時間の内に随分と変わってしまったのだ。
「さ、寒い」
僕は現実に戻るとともに、所々の感覚も取り戻していた。頭からつま先まで、全身ずぶ濡れになってしまったせいでひどく寒い。そして朝食を食べずに飛び出してきたため空腹感が僕を襲う。僕は急いで帰ろうとした。
「お、おい!あんちゃん!」
「え?」
僕は意識を取り戻してから頭に余裕がなかったせいか、目の前にいる少年に気付かなかった。小学校中学年くらいの小さな男の子が、僕を不思議そうに見つめていた。右手には彼の背丈からすれば一回りも二回りも大きい紺色の傘が力強く握られている。この子のおかげで僕は現実に戻ることができたのか。僕はこの無垢な少年に好印象を抱いた。
「僕を、起こしてくれたんだね。ありがとう。」
僕は少年の方に向き返るとその背丈に合わせてしゃがみこんだ。少年はニッと笑うと、僕に持っていた傘を差し出した。
「おいの家、すぐそこじゃから寄ってけ。タオルとか貸すよ。」
強い訛り口調で、少年は突然妙なことを言い出した。
「え、あ、ありがたいけど、遠慮しとくよ。お家の方に迷惑だろう。」
「いいんじゃ!こいよゥ、あんちゃん!」
そう告げると少年は傘を僕に押し付け、半ば強引に僕の手を引いた。
「わっ!」
つんのめって倒れそうになる。なんとか立ち上がると、今度は僕が少年の手を引いた。少年は主導権をあっという間に奪われてしまった。
「だ、だめだよ!こんなずぶ濡れで人の家なんて行けない…!と、というか君、学校は?」
僕は少年に傘を返すと、再びしゃがんで目線を揃えた。
「だってあんちゃん、そんな格好じゃ風邪ひくぞ!学校は…、き、今日は休みさ。」
「休みなのか…?い、いや、僕の家も近いんだ!だから気を遣わなくていいよ。」
「じゃあ傘貸しちゃる。」
「大丈夫だよ、そんな。」
「いやだ!あんちゃん、おいと遊ぼうよ!」
何を言っても少年はなかなか僕から離れようとせず、駄々までこね始めた。流石に嫌になりそうだったが、彼が僕を起こしてくれなければ恐らく僕は風邪をひいていたであろう。だからここは少年の希望にできる限り答えねばなるまい。というより、気の弱い僕には少年を追っ払うなんてことはできなかった。その性格からか、昔から周りの人間に『誰に対しても優しすぎだ』と言われていたのかもしれない。とは言え大の大人である僕が、特に法律家になろうとしているわけだが、未成年この少年を自宅に連れ込むなどあってはならない。僕は困り果てた。雨はだんだんと強くなってきている。
ここからアパートまで急げば五分もかからない。
「僕と、遊びたいのかい?」
「うん!おいの家に来ておくれよ。おいん家、定食屋さんなんだ!」
「そうなんだ。なら、僕は今から着替えてくるから、少しだけ此処で待っててくれる?」
少年の顔は花が咲いたように明るくなった。
「ほんまか!ええぞ、待っちゃる!はよ来てくれよ、あんちゃん。」
「ああ。わかったよ。」
僕は踵を返すと急いでアパートに向かった。定食屋なら、無理なく入れる。そろそろ昼の時間帯だから丁度いいだろう。そこで少年と遊戯に興じれば尚のこと良い。
それにしても、不思議な少年だ。
あれほど小さな子供だから卑劣な思惑などはないだろうが、一体僕に何を見出したのだろう。
僕は少年のことを考えながらアパートに戻った。家に入ると、朝食がラップをかけたまま残っていた。しかし今の僕に食べる余裕もない。僕は高速でシャワーを浴び、着替えを済ませ、髪を乾かすとポケットに目薬を突っ込んで再び公園へ向かった。
この少年との出会いが、僕の人生の分岐点となる。
雨は、先程に比べればだいぶ静まっていた。