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数字が漢字だったりそうでなかったりしますが気にしないでください
「……また目薬買うの?この前買ったばっかじゃん。」
「前のはあんま良くなかったから。今度これ、試してみる。」
「どれも同じでしょ……もったな。」
「いいんだ。ほら、さっさと買って帰ろう。」
僕は手に取った高価な目薬を、雑に買い物かごへ放り込んだ。
水無月。
雨が、降っている。小粒の滴が、アスファルトに降り注ぐ。竪樋を通る雨水の音がする。重力に逆らわない雨が、意志の持たぬ雨が、かたちを変えてそこにある。
僕はペンを置いた。目薬をさし、瞼を閉じる。目の内に入り切らなかった液体が頬を伝う。眼球の奥の方に染みるのを全身で感じながら、僕はふーっと息を吐き、椅子の背にもたれかかった。衝動で椅子が軋む。
古びた本の臭いが、いつもより鼻を突き刺す。
紙が伸びる。
よれたTシャツが、汗ばんだ身体に張り付く。
扇風機が、いつもより仕事をしていない気がする。
──扇風機は「弱」以外許さないから。光熱費もちゃんと考えてよね。
彼女の耳を劈くような、痛い言葉を思い出した。だが今日は特に蒸し暑い。今日くらい、良いじゃないか。
扇風機の前に座ると、僕は風速を「強」にした。音が激しくなって、顔に当たる風が急に強くなる。涼しい。僕はしばらくそこを動かなかった。首元からTシャツの内側に入った風は僕の肌を冷やし、官能的なものとよく似た快感を、僕に感じさせていた。
同棲生活も早くも三年が過ぎた。
司法試験に挑戦するため理系大学を中退した僕は、看護師の彼女に援助してもらいながら日々勉強に励んでいる。父も母も、中退なぞした僕など言葉を交えたくない、顔も見たくない、と縁を切ってしまった。親類で唯一頼りにしていた叔母も、持病が悪化して入退院を繰り返し、僕はとてもじゃないが頼れなくなってしまった。
友達のいない僕が最後に行き着いたのが彼女だった。
高校時代に出会い、大学は違ったもののたまたま本屋で再会し、以来交際を続けている。彼女は看護学校を出た後総合病院で勤務していた。僕と違って明るくて、気の強い性格だった。傍から見れば共通点の見いだせないくらい、それ程僕らはかけ離れた性格の持ち主だったが、それでも何故か気は合った。話していると楽しかった。僕が事情を話すと、彼女は僕を養ってくれると言った。
──その代わり、将来は私を護ってよ?
初めて身体を重ね合わせた時、彼女は僕にそう告げた。僕はひどく嬉しかった。僕の将来が、約束されているようだった。勉強を頑張ろう、何があっても司法試験に合格して、弁護士になろう、と天に誓った。
だがそれから3回、試験を受けたがどれも失敗に終わった。
1回目が一番良い点数だった。あと1歩で、という所で失敗に終わったのだ。悲しむ僕を彼女は真摯に受け止め、慰めてくれた。2回目、3回目は点数が落ち込み、僕はどうすればよいのかわからなかった。それでも彼女は僕を温かく包み込んでくれた。
バイトもせずに、無職のまま、気付けば僕は26になっていた。
「ふう。やるか。」
僕は扇風機の風速を「弱」に戻した後、机に向かった。再び目薬を指す。新しい目薬は、前買ったものより200円も高かったものだ。効果は期待していた。僕はこれで、目薬を6本試したことになる。
「…あまり、感じない。」
僕は目薬を指すことで快感に浸りたかった。というのも、浪人し大学受験に熱心になっていた頃、友人に借りた目薬が驚くほど良いもので、感じたことのない快感に浸ることが出来たのだ。翌日友人にまた貸してくれ、と頼むと捨てた、と答えるたので捨てた場所を聞きそこでゴミを詮索した。しかしその目薬は二度と出てこなかった。
それからというものの、僕は多くの目薬を試している。勉強の合間に、最高のツールだった。まだあの友人に借りた目薬のようなものは見つからないが、それでも頑なに目薬を指していた。
そして今回買った目薬もまた、同様だった。
「また新しいの、買おう。」
目薬を買う金は、他でもない彼女の金である。
「ただいまー」
「あ、おかえり。」
彼女が病院から帰ってきた。平日は毎日朝から夕方まで、忙しく働いている。僕のために働いてくれているんだ。そう考えると息が詰まりそうだった。特に一ヶ月前、三回目の試験に失敗してからと言うものの、ろくに目も合わせられなくなっていた。それまで一緒に寝ていたのも、どちらかが先に寝るようになった。
「夕飯今から作るし。先風呂入ってて。」
「うん。わかった。」
僕は立ち上がると扇風機を消して、洗面所へ向かった。Tシャツを脱いで鏡を見ると、ふと気付くことがあった。
(痕……消えたな。)
ほんの数ヶ月前まではほぼ毎日のように夜の営みを行っていた。そしてその度に、彼女は僕の首元に、肩に、鎖骨に、様々な箇所に口付けを残していった。僕も彼女にたくさんの痕を残した。だがそれも、今となってはその殆どが消えて無くなった。そして僕も、不思議と彼女の身体を求めることはなくなっていた。僕の身体が、彼女を忘れようとしているのか。
お世辞にも男らしいとは言えない体躯。元々細身ではあったが、同棲を始めてから更に痩せた。仕方の無いことだし、僕はそれを嫌だとは思わなかったが、それにしても……自分の情けなさが身体に表現されているようでならなかった。
風呂から出ると、テーブルには魚料理が乗っていた。じんわりとオリーブオイルの匂いが漂ってきている。今日は洋食のようだ。
「うわあ…すごい。この魚、なんだろう。鱈かな?」
大きめの皿に、メインディッシュの魚の切身が乗っている。白色をベースにしたソースが魚を覆うようにかけられている。
なんて豪華な食事なんだ。
「太刀魚よ。今が旬なの。だから今日、ムニエルにしてみた。」
彼女は台所でエプロンを外しながらそう告げた。
「太刀魚…!そうか、今が旬なんだね。」
「早く食べよ。冷めないうちに。」
「ああ。」
僕らは顔も合わせぬまま、互いに席についた。彼女と向かい合わせの席だったが、いつも食べ始めまで目の前の食膳を見つめることでやり過ごしていた。いただきますと言い、僕は早速箸を手に取った。
一口サイズに切った太刀魚を口に運ぶ。入れた瞬間、魚のふんわりとした身が口内の神経を驚かせる。なんだ、この優しい感覚は。ゆっくり噛む。一気に味が広がる。ソースが舌に絡みつく。僕の口の中で、革命でも起こっているのか。一言では言い表せない、不思議な感覚が僕を包んだ。
「太刀魚、すごくおいしいよ。」
太刀魚なぞ食べたのはいつ以来か。僕は太刀魚を見つめながら、彼女に話しかけた。
「本当?よかった。ほら、スープも飲んでみてよ。結構頑張ったんだよ。朝、出汁をとったんだから。」
「ああ。」
ぎこちない会話だ。話していない間の静寂が僕は嫌いだ。でも今は食べることに集中しよう。スープって、鶏ガラスープじゃないか。
「僕の大好物…」
思わず呟いてしまった。
「そうよ。久しぶりに作ってみたから。まだまだあるよ。」
「…うん。とてもおいしい。ありがとう。」
また僕は、スープにお礼を言った。とてもおいしい鶏ガラスープの筈が、何故か今日のは味が濃い気がしてしまった。
嫌な予感がしていないわけではなかった。
なんの記念日でもない今日、彼女が豪華な食事を作る理由。考えれば考えるほど億劫になるが、僕はある程度の覚悟はしているつもりだ。
夕飯を終えると僕は再び法律書を開いた。が、集中出来ないため今日はもう寝ることにした。
時刻は二十二時。中学生の就寝時間か。たまには、いいだろう。
僕は寝支度を整えると勉強部屋の隣の寝室に行き、一つしかない、ダブルベッドの端の方に横になった。シャワーの音が聞こえる。
彼女は風呂か。さっさと寝てしまおう。
僕は目を閉じた。まだ眠くはなかったが、そのうち襲ってくるであろう睡魔に期待をかけて、身体を休めることにした。
しかし、来たのは睡魔ではなかった。
「…ねえ。もう寝るの?」
「……え?」
呼ばれた僕が思わず顔を上げると、そこにはバスローブに身を包んだ彼女の姿があった。髪から零れ落ちる水滴が、バスローブに当たってゆく。
僕は思わず目を合わせてしまった。目を離そうとしても、何故か離せない。まるで離してはいけないと、身体の芯から命令がくだっているようだ。
しかし久しぶりに目を合わせた彼女は、果たしてこんな顔をしていただろうかと思えるくらい、別人に見えていた。
「…もう寝んのかって、きいてんの。」
腰に手を当てた彼女が、強めの口調で問いかける。
「え…う、うん。今日はもう…寝ることにする。」
「……そう。」
「……どうして?」
「……」
下を向いた彼女はなかなか答えなかった。その間にも、髪から出た水滴は、落ち、床に模様を描いていた。
「久しぶりに、やらないかなーって、思っただけ。」
少しだけ頬を赤らめながら、彼女は言った。
彼女が僕の身体を求めているのか?
僕は少しだけ怖かった。夕飯が回想される。信じたくない予感が、頭の中で膨らんでゆく。
否何も言える立場にない。
僕は恐る恐るベッドを降りると彼女の元へ行った。お互い下を向いたままだ。先に顔を上げたのは、彼女の方だった。僕の胸板に、彼女の頭があたる。腕が、僕の胴に絡みつく。
ああ、ひんやりしている。
彼女は僕の顔を近付けると、口付けを落とした。
融ける。融けてゆく。
唇を離すと、彼女は僕から目をそらすように斜め下を向いた。ああ、「いつも」の光景だ。僕の彼女はキスの後、照れた顔を隠すように、いつもこうして斜め下を向く。
僕は彼女が求めるものすべてを与えようと思った。
バスローブの紐を解く。その艶やかな肌からは、僕と同じボディソープの匂いがした。
久しぶりに抱いた彼女は、前と比べて少しだけ痩せたような気がした。