三 有象無象
目覚めよ――と声を聞いたような気がした。
とあるビルの一角。頭を撃ち抜かれたり、心臓を撃ち抜かれたり、原型を留めていなかったり――そんな死体が無作為に転がっていた。
「おい優子」と川島が呼ぶ。「ボサッとしてんなよ。始末したんなら、とっととずらかるぜ?」
優子は、川島の呼び声で我に返った。
「……えッ? あ……うん、そうね。行きましょう」
空耳かしらん? そう思いながら、優子は今日も阿井からの指令を実行していた。そう、殺しだ。しかし、大儀名分さえあればただの“殺し”も“正義”となる。だがそれは、優子にとって大義名分を掲げるような正義では無く、ただの仕事でしかなかった。ようは、会社員が書類に印鑑を押すのと大差ないのだ。印鑑を押すのに、大儀や名分などを掲げる必要など無いのだから。
「しっかしよぉ、最近やたらハードじゃねぇか? 三日に一度のペースで召集されちゃあ、オッサンそろそろ参っちまうぜ」
そう言いながらビルの外に出た川島は車に乗り込む。今日は職場の車だ。そして、優子もいつも通り助手席へ座った。
「ホントよねぇ――って川島さん、まだ二七でしょ。若い若い」と優子は、ツッコミを入れながら言ったが、しかし実際は殆ど疲れを感じていなかった。
あいつの相手をする事を思えば、組織の一つや二つ潰す方がよっぽど気が楽だ。そう――私がこの仕事を始めて以来、ただ唯一仕留め損ねた相手。名は『K』。今は叶慧斗と名乗っている。それが本名かもしれないが、そこまでは解らない。
もう“あの日”から二週間が経過していた。防衛省の大臣官房、芳川幸一がKに殺害された日から。
最近、何だか変な気分だ。と優子は思った。誰か――いや、何かが語りかけてくるような、そんな感じがして止まない。しかし、そんな声が聞こえたという確証も無い。一体どうすべきか? 放って置いてもいいものか、それとも精神科医に? う~ん――
そう悶々としている優子を尻目に、携帯電話が彼女を呼んだ。誰からだ? と思ったが、やはりと言うか――案の定、阿井からだった。
「もぉしぃもぉしぃ?」と優子は、精一杯の不機嫌さを込めて言った。
『――そう嫌そうな声をするな。今日は仕事の話じゃ無い』と阿井はいつに無く穏やかに言った。『この数日間、君や川島には結構無茶をさせてしまった。そこで、だ』
「そこで? そこで何よ? 休みでもくれるのかしら?」と優子は言った。実際休みは欲しかったのだが、しかし別段期待して言った訳ではなかった。
『その通り』と阿井は言った。『よく解ったな。予知能力でも有るのか? いや、それはさておき。君に一ヶ月間の休暇を与えよう』
「えッ? い、いっ…」
『あまり目立った行動は控えるように。期限は来月の十五日、明日から調度三十日間だ。その間は一切仕事の連絡は取らない。では…長期休暇、十分に楽しんでくれ』
「ちょっ⁉ 阿井、はぇッ?」
返事はない。携帯電話からは電子音しか聞こえなかった。
「…プッ。キャハハハハッ!」優子は、何故だか溢れる笑いを抑えることが出来なかった。
やっと見付けた。叶慧斗は歓喜と安堵の笑みを浮かべた。しかし、楽観は出来ない。そう、まだ見付けただけだ。
そう言って慧斗は笑顔を潜め、神妙な顔付きになった。あのでは状態はまずい。かなり進行している…このままでは、この世界に完全に馴染むのも時間の問題だ。そうなる前に、まだ違和感が残ってるうちに早くこちらに連れ戻さないと――
「うッ……」
慧斗は目眩で体制を崩した。
「こちらも時間が無い…か。しかし――必ず、必ず連れ戻す。待っていてくれ…我が友よ…」
そう言い終わると、慧斗の顔は急に笑顔に戻った。しかし、先程の笑顔とはまるで違う――そう、まさに悪意の塊のような、そんな不敵な笑顔だった。そして、そのまま無言で電話の受話器を取り、番号を押した。電子音の後に呼びだし音が鳴る。
『誰だ』と日本語で、低くドスの効いた声が答えた。威圧的な対応は警戒心の現れだろう。
「あぁ、ニコライ君かえ? 俺、俺ぇ~♪ 慧ちゃん」とニタリと笑いながら慧斗は答えた。
『イワンだ』そう言ってイワンは息を吐きながら警戒心を解いた。『ケイト、何故帰ってこないんだ? 今朝のニュース見たぜ。任務は成功したんだろう?』
「あぁそーだなぁ。任務は成功したよん。でもよぉ、見られちまったんだなぁこれが。向こうの工作員にさぁ。で、昨日やっとその工作員の居場所を突き止めたんだなぁ~。しっかしよぉ、殺りたくても弾薬がねぇんだわ」
『あ~成る程な――用件は解った。補給は弾薬だけでの良いか。他には?』
「う~ん、相手はかなりの手慣れみたいだったからなぁ。それに組織にも所属してるみてぇだし~。クラスⅢA以上のボディーアーマー…着込まれたら厄介だよなぁ――ん~ッ!じゃ、AN-94! ――と言いたいが、アレは作動不良が多すぎる――AKの血統とは思えねぇくらい繊細だからなぁ。だ・か・ら! AKS-74Uを二挺に後ヤリギン用に九ミリパラを寄越してくれ~♪MP7の弾集めるよりもずっと簡単だろぉ?」
『よし、解った。こちらもその方が楽だ。だが、それでも三日はかかるぜ?』
問題無いと慧斗は答えた。しかし、三日となると、決行は四日後の火曜日か。それでも全く問題は無かった。敵はあの場所から逃げられない。いや逃げたとしても、俺が逃がさない。逃がすわけが無い。
『そうそう、まだニッポンにいるついでに、もう一仕事どうだい? なぁに金は弾むさ』
「ん~どんな仕事ぉ?」
『ああ、ここ最近、うちの組の支部事務所が立て続けに襲われている。その実行犯を殺って貰いたいっつー仕事だ』
「ふ~ん。じゃ、顔くらい割れてんだろ? 解らんようじゃあ、いくら俺でも無理だぜぇ?」と言って慧斗は大きな欠伸をする。
『大丈夫だ。今、そっちに送る。えっと、あんたのPCで、良いか?』
「あぁ、大丈夫。電源は入ってる」
そう言って慧斗は、殆ど使ったことの無いノートパソコンを開いた。
『よし、送信した。それが名前と写真だ』
「どれどれぇ?」と言ったものの、慧斗が全くパソコンの使い方を知らなかったので、作業はかなり難航した。そして、ようやくメールの内容を見れるようになって慧斗は一息つく。
「ったくよぉ、これじゃあ便利なんだか、不便なんだか解りゃしねぇぜ~」
『全くだ……』とイワンは溜息をついた。『早く、見てくれ…』
「あいあい――はれぇ~? こいつはぁ~♪」
送られて来た標的の写真を見て、慧斗の笑みはさらに深くなった。
「朗報だぜ~❤ ニコちゃん」
『イワンだ』
「アッハァ~全く、手間が省けるってのはこの事ォ~❤ コイツだぜぇ~? 俺の狙ってる工作員って奴はぁよぉ~♪」
送られて来た写真の人物は、慧斗の標的、則ち朝比奈優子だった。
「ヒッヒッヒッ…コイツなら、ロハで殺ってもいかったのになぁ~? で、お代は幾ら。ニコライ君?」
『イワンだッ。全く…前金で二百万ルーブル。親父は即時抹殺を願っている。成功でさらに五百万ルーブル。良い仕事だろ?』
「クックックッ…良いね良いねぇ~。流石はオヤッさん、太っ腹だぁ~な♪ …よッしゃ、オヤッさんの為だ、ド派手に殺ろじゃないのッ! だからニコライ君、さらにヴァンピールも追加して送ってくり~」
『は、ははは…』イワンは失笑した。『はぁ…解った、解ったよ…もうニコライでいい(つーか、ニコライって誰だよ)。しかし、あんまり派手に殺り過ぎんなよ。ニッポンの警官だからって、ナメ過ぎちゃいけねぇぜ?』
イワンは慧斗の能力の事を知らないのだ。
「ん、それも問題ね。しっかり血祭りに上げてやらぁな!」
血が騒ぐ感覚。早く快楽に身を委ねたい。
『まぁ…あんたの逃げの早さは俺も知ってるが…何処で殺るつもりだ?』
イワンの質問に、慧斗は一言だけ答えて受話器を置いた。
「国立中央総合学園♪」
慧斗の黒い笑い声が暗がりに響いた。




