一 不変日和
所詮は偽りの世界
似て非なる虚像の現実
着信音で目が覚めると、自分があられもない姿でベッドから転落していたことに気付いた。こんな深夜に一体誰だ?
「…あい…もひもひ?」
『送った書類には目を通したかな、優子』
「ああ――阿井か…」と優子は服装を整えて、もう一度ベッドに寝転がった。電話の主は阿井宗一郎。名目上は私の上司だ。
『で、目を通したのか』
「ええ。で、これが何?」
枕元に散らばる書類を拾い上げ、一通り目を通す。
『ちゃんと見たのか? 防衛省の大臣官房、芳川幸一。彼はある組織から狙われている』
「別にいいじゃない。全うさせてあげれば? その狙ってるって人たちに」そう言って優子は、ベッドから起き上がり手に持った書類を放り投げた。
『まぁ、確かに芳川についてはいい噂を聞かないだろうが、見過ごす事は出来ない。私の管轄だ。全く厄介な事だよ。奴の職務先への移動中に襲撃される可能性が非常に高いだろう。我々としては彼を安全に移送させなければならないのだが――』
「だから、何? どうしたのよ、そんなに慌てて」
『襲撃は確実に十時間以内だ』
「はッ? き、今日⁉ な、なんでまた――」と優子は身を乗り出して驚いた。
『ハハハ、まさか大臣官房がソコロフ・ファミリーとモメてるとはね。全く警護するこちらの身にもなってもらいたいね』そうは言うものの、阿井の口調は落ち着き払っていた。
「ソコロフ一家⁉ 殺し屋じゃない⁉ 一体何をどうしたらそんなのが来るのよ?」
優子は驚きを隠せない。ソコロフ・ファミリーと言えば、ロシア系のマフィアと言うより殺し屋集団と言った方が的を射ている程のアブナイ連中だ。何故そんな連中に日本の大臣官房が狙われるのか、意味が解らない。
『まぁ、詳細は追って知らせる。学校の方には私から言っておこう。君は、また風邪で休む事になるかな』
「ちょっと待ってッ。今月でもう四回目よ! 殆ど毎週じゃない。このままじゃ私、留ね――」
『では、健闘を祈る』
「あっ」
優子は大きく溜息をついたが、いつもの事か、と諦めて机の引き出しを開けた。大量の5.7mm×28 SS190通常弾。その奥に置かれたFNファイブセブン。その拳銃とマガジンをそっと鞄に入れた。仕方ない。優子は思った。これも仕事だ。
ホテルの屋上で優子は夜風に当たっていた。気持ちいいと思った。昔から好きだった。――昔? まだ十七年しか生きていない。しかし、たった数ヶ月が途方もないくらい昔に感じる。こんな仕事のせいだわ、全く嫌になる――
優子はロビーに戻って喫茶店の奥の一角を陣取った。そして、移送ルート全体の地図や定規を並べ射線計算を始める。ホテルに来る前に受けた阿井からの詳細情報を思い出しながら。
〈今から相手にする殺し屋だが――喜べ優子。向こうは何とあの有名な『K』を使うようだ〉
「けい? ケイってあのK? うッわぁ、最悪…」
〈そう落ち込むな。有名な分、情報はたんまりある。それに顔も割れているしな。先ずは彼の足取りから言おう。五日前、空港を叶慧斗名義のパスで通っている。そして昨日この街に入った。その時、偶然正面から写真の撮影に成功。高速で速度超過だ。らしくないミスだが、こちらとしては有り難い。それに『君の能力』にも役立つだろう。写真もこの資料と共に渡しておく。で、次は奴の手口だが、知っての通り奴は狙撃手だ。芳川の移送経路は、ビル街の大通りをほぼ真っ直ぐ突き抜ける。護衛は前後に二台、左右に二台の計四台。こうなると狙撃地点は限られてくる。
「写真以外たいした情報ないじゃない。それに、いくら場所が限られてもスナイパーを止めるなんて九○%は無理ね。ほぼ不可能よ」
〈…そんな事はない。奴には弾着観測者がいない。これは過去数百以上の事例から判明している。それに奴は軍人じゃ無い。裏社会に生きる殺し屋だ――と、忘れるところだった。ホテルに着いたら『いつものところ』へ行け。狙撃銃を用意してある〉
「手際の宜しい事で。でも、私にもスポッ――」
〈狙撃銃はアキュラシー・インターナショナル社のアークティク・ウォーフェア・マグナムを用意させてもらった。初めて使う小銃だったろう。「慣らし」もそこでしていくといい。では、頼んだぞ〉
「ちょ、ちょっと、私独りで狙げ――あっ、切りやがった」
射線計算終了。仮定に過ぎないが一応狙撃地点を絞った。移送直線上に一箇所。さらに、難しいがホテルに入る直前の下車を狙えるビル。そして一番難易度の高い、移送中の背後から撃てるビルの計三箇所――この時点で既に私に勝ち目は無い。
むー。優子はあからさまに不満げであった。阿井の野郎、いつかブッ飛ばしてやる。それに、自分は狙撃が上手いわけでは無い、という事実が圧し掛かる。唯一の救いは、その三箇所全てを狙える場所があった事だ。
優子は阿井から貰ったKの写真を取り出した。今は叶慧斗と名乗っている。日系の顔付き。もしかしたら本名かも知れない。優子は、何故かその写真の男に、今まで一度も会ったことがないにも関わらず親近感を覚えた。
いいや、そんなはずは無い。ただの錯覚だ。そう自分に言い聞かせ、優子は写真の中のKの胸に×印を付ける。阿井は『能力』と言っていたそれは、正確には『精神波物理干渉能力β−型能力者』という、所謂『超能力』の一種だ。が、今では科学的に立証され『精神波能力』に分類される。でも、そんな大それたものじゃあないと私は思っている。実際、私にとってのそれはお呪い程度の事だった。×印を描いたところに当たるという、ただの思い込み。科学的に立証はされても、私にとってはどうでも良い事だった。そして、それ以前に準備を怠ってはいけない。優子はもう一度、念入りに装備の点検をする。生きたいなら――死にたくないなら、慎重過ぎるくらいが調度良い。
熱心に点検していた優子だが、ふと我に返って時計を見た。
午前六時一○分
頃合いか、と席を立とうと思った時、背後に気配を感じ咄嗟に身構える。
「優子、そのまま聞け」と男が、優子の後ろの椅子に座って言った。
「……何かしら」と優子は肩の力を抜いた。知った声――川島という阿井の使いの者だった。
「宗一郎様より伝言だ。『移送の時間が一時間早まった。遅れぬよう仕事を熟せ』だ、そうだ。邪魔したな。まっ、健闘を祈る」
それだけ伝えると川島は、そそくさと何処かに行ってしまった。
おそらく時間変更は無駄だろう。優子は思った。相手はプロなのだ。いつ何時不測の事態が起こるとも限らないのに、暢気に時間調度に現れるはずが無い。
「悩んでも仕方ないか」
そう言い聞かせ、優子はホテルを出た。
優子は焦っていた。
もうすぐ芳川を乗せた移送車がこの大通りに来る。もう残り時間は十分も無い。それなのに、未だにKが現れなかったからだ。
何故現れない。優子はK――叶慧斗の写真を握り絞めた。まさか、私の予測が外れた? まさか――そう思ったその時だった。握り絞めた写真が僅かに熱を帯びて振動した――ように優子は感じ、ふと辺りを見回した。
そこに、Kがいた。
先程までずっと監視していたはずの、誰もいなかったはずのビルの屋上に、その男は立っていた。狙撃銃らしき物は何も持っていない。いや銃は持っている、と優子はその男の左手に銃を確認する。消音器付きのヘッケラー&コッホ社のMP7。短機関銃だ。
意味が解らない。優子は混乱する頭を必死に回転させる。一体何が――いや、それより早くKの狙撃を阻止しないと。MP7は短機関銃だが、二〇〇メートル離れた標的にも命中する集弾性を持っている。Kが狙撃のプロフェッショナルなのだとすれば、一〇〇〇メートルの狙撃も不可能ではないだろう。
優子は至って冷静にKへと狙いを定め直す。そう、私は私の仕事を熟すだけ。ただ、芳川が撃たれる前に私が撃つ。それだけ。
照準器の中心にKを捉え、銃爪に人差し指を掛ける。距離はおおよそ六○○メートル。現在ほぼ無風。優子は一気に銃爪を引き絞った。
躊躇いは無かった。消音器によって衝撃音は小さかったが、肩に大きな衝撃を受ける。まるで、時間が引き延ばされたかのような感覚。Kの左胸部――心臓目掛けて飛んでいく弾丸がひどく遅い。
だが――弾丸がKの左胸部に着弾する直前、照準器内のKと目が合った。その、さらに短い時間の間に、優子は確かに見た。Kが唇を動かし、何かを喋っているのを。そして次の瞬間、Kが消え失せたのを。
奇妙な、眺めだった。まるでそこには、始めから誰もいなかったかのようにその男は消えていた。とたん、Kの左胸部を狙った弾丸がその消えた空間を摺り抜け、一瞬後、弾丸はなんの抵抗もなく屋上に着弾している。
優子は心の奥から言いようの無い恐怖が湧き出るのを感じた。自ずと呼吸は荒くなり、額から冷汗が噴き出る。優子は暫くその場を動く事が出来なかった。
一瞬だった――一度も目は逸らさなかったにも関わらず、Kは消えた。優子は腰が抜けたかの様に、その場へ座り込んだ。そして、実際聞いていないにも関わらず、Kが最後に言った『言葉』が鮮明に蘇った。
あの時Kは、確かにこう言ったのだ。『みつけた』と。混乱する頭の中、その言葉だけが、何度も何度も反響していた。




