少女と鳥のジョーンズ
「空の向こうになんて、なんにもない」
これは、ある少女のお話だ。
少女は目の前に広がる一面の、暗い、暗い、空に向かってつぶやいた。
なんにもない草原の中それを見上げる少女はまるで、
真夏の夜に迷い込んだ一匹の蛍のようだ。
暖かい風が地の果てのどこからか、おーん、おーんと吹いて、少女のか細い黒髪と、茶色く泥やら煤やらで汚れたスカートを巻き上げる。
その中からは、ずっとそれで歩いていたのか、ただれた裸足がのぞいていた。
風はいつまでも休むことなくおーん、おーんとないている。
雑草たちの静かなざわつきは遠くまで響き渡り、その音がよりいっそう孤独感を増しているようだった。
そんな風を背に、少女はその中でずっと、真っ暗な瞳で空を眺めていた。
この子はとても悲しい少女だ。
何が悲しいかって、なんにもないところだ。
そう、少女はなんにも持ち合わせていない。
両親も、やさしいバァバも、そして心の友も。
でも少女はちっとも悲しくなんかなかった。
なんにも、なんにも、おもってないからだ。
そんな少女が、空の方を眺めていた。
なんにも考えず。ぼーっと、ぼーっと空の方を眺めていた。
どれくらい時間がたっただろうか、少女はうつむいて、ため息一つを吐き出した。
そのため息は風の中に消えて、どこか遠くへと運ばれていった。
少女はそれにも気づかずに首をあげて、ずっと、ずーっと空の方を眺めた。
それからしばらくすると、暗い空の中に何かが見えたんだ。
それが気になった少女はじっくり目を細めると、広げたコブシほどの小さな光のかたまりが空に浮かんでいるのがわかった。
とてもきれいな白金は落ち着いた様子で輝いている。
そしてそれがどういうことか少女の目の前に落ちてきたもんだ。
驚いた少女はさっと身をかわしたが、光のかたまりは少女のほうへと吸いよってきたんだ。
その光のかたまりは風もおかまいなしに少女のまわりをぐるぐる飛び回る。
困った少女だが、しかめた面しか出来ることは無かった。
ぐるぐるぐるぐる。光はまわる。
少女のまわりを、ただ回る。
暫くして光のかたまりは落ち着いたのか、少女の目の前でゆっくりと動きを止めたんだ。
もしかして疲れきったのだろうか?
そう思った少女はその光にむかって少し警戒しているようで、震えた声でこういった。
「ねえおまえ? 大丈夫かい?」
そしたらなんと、光はどこからか分からないが声を出して少女にいったんだ。
「あぁ、大丈夫だとも。すこしはしゃぎすぎたかな」
まさかその光のかたまりが話すとは思ってもみなかった少女は驚きを隠せなかった。
でも少女は、光のやさしく、心に澄んで入るような声に気づいて、少し柔らかい顔になった。
「おまえは誰だい? なにしにきたの?」
「誰でもないし何でも無いよ」
光はこたえた。
少女はまた困った顔をしたが、よーく考えたら、ある答えがぴんときたもんだ。
「ジョーンズ! そうでしょう。あなたなのね!」
少女は叫んだ。
根拠はどこにも無かったが、この白金は間違いない。
確かに少女はこの光がジョーンズだと感じたんだ。
そう、少女には親友がいた。
むかし飼っていた鳥のジョーンズだ。
ジョーンズもコブシを広げたほどの小さな鳥で、白い頭に金の羽を蓄えた凛々しいヤツだ。
二人の関係はずっと昔、少女がもっと、もっと、もっと幼かった頃から続いていた。
少女がこの世に生まれると、ジョーンズは暖かく迎え入れた。
少女が夜泣きをあげると、ジョーンズは静かに寄り添った。
少女が歩き出すと、ジョーンズは先を飛んで導いた。
少女が走り出すと、ジョーンズは後ろで休んで見守った。
少女が話しだすと、ジョーンズ、大丈夫だよと励ました。
少女が心配そうにすると、ジョーンズは静かに眠りついた。
少女が泣き出すと、ジョーンズは一人、空よりも届かない場所へ旅立った。
なんにもなかった少女は思い出した、あのときの悲しい気持ちを。
するとどうだ、光のかたまりは形を変え、一羽の小さな鳥の様になったのだ。
その姿をみた少女は、世界中の悲しみがいっぺんに降り掛かったように、大粒の涙を転がした。
「あぁ、ジョーンズ。遭いたかったよう。寂しかったよう」
「また、僕のために泣いてくれたんだね」
光はそういった。
「そう、そうよ。ジョーンズ」
次第に少女の顔は明るくなっていった。それはまるで天気雨のような笑顔だ。
少女の心は悲しさもだけれど、どんどんと嬉しさもあふれてきたのだ。
「ジョーンズ。私に遭いにきてくれたのね」
「あぁ、そうともさ。君を待っていたんだ。この空の上でずーっとね」
「ずっと? さっきまで空にはなんにも無かったわ。でもジョーンズ、あなたは今、確かにここにいる」
少女は小さな光の鳥を手のひらで包んでそして、自分の胸へ優しく持っていった。
太陽のようにあたたかな、それでいて安らかで心地いい波のような光が、少女のところで輝いた。
「ジョーンズ、向こうは寒かったでしょう? もうずっと私の側ににいていいのよ」
すると光の鳥は、抱きしめた少女の手からゆっくりと羽ばたいた。
少女は光の鳥が離れてしまうことに悲しい顔をしたが、光は少女にそっと優しくいったのだ。
「違うよ。ずっと側にいたんだよ。今までもこれからもずっとね。それにね、向こうも全然寒くなんてないんだよ!」
「ほんとうに? どんなところで暮らしてるの?」
「大きな三角屋根のお家で仲間と一緒に暮らしているんだ。毎晩音楽でね、歌って踊って楽しいんだよ」
光の鳥は楽器を演奏する真似を愉快にしてみせた。
少女はさっきよりも安心した顔でもって、また尋ねた。
「お友達ともうまくいってるのね?」
「もちろんさ。黒い羽の彼はね、とっても早く飛ぶんだよ。とても追いつけないくらい。こぎつねの彼はいじわるだったけど今は仲良しさ。たまにクマの親子も遊びにくるんだよ」
少女はまた、大粒の涙を転がしてこういった。
「よかったよぅ。一人じゃないんだね」
「きみもね。一人じゃないんだよ」
少女は溢れる涙を袖でさっとふいた。
服の汚れが涙で滲んで、筆を走らせたかのように目のまわりが黒くなる。
「私、本当に寂しかったんだよ。あなたがいなくなってから、ずっと一人で働いて。ぼろぞうきんみたいに。みんなが言うの。あいつはかわいそうな少女だ。悲しい少女だって」
少女の瞳から次々と転がっていく涙を、光の鳥はひょいっと拭ってやった。
目のまわりの黒いのも、光に触れたとたんふわっと消えてしまい、
少女のその柔らかな肌が顔を出したんだ。
「暗い闇の中で僕たちは輝いている。君だってその汚れた服の奥では輝いているはずさ。そうだろ?」
そういうと光の鳥は、その場でさっと宙返りしてみせて、少女の目の前でとまった。
少女を見つめる光の鳥は、何度か瞬いて、そして空の上へと羽ばたいていった。
「待って! いやっ! 行かないで!」
少女は光に向かって必死に手を伸ばし、涙とともに何度も叫んだ。
でも、その手が届くことはなかった。
「僕はずっと君をみていたよ。君も僕をみていていいんだよ。大丈夫、君ならもう僕を見つけられたから」
少女の頭の中にやさしい声が澄み渡った。
それから少女ははっとして起き上がったんだ。
いつの間にか草原の上で居眠りしていたらしい。
少女はとても悲しい気持ちになった。
目の前をみるとなんにもない草原が広がっている。
そして、暖かい風はいつまでも休むことなくおーん、おーんとないている。
ふっと風の方に顔をやると、あの草原の中に夜露を受け止めた雑草を見つけた。
そのまわりをトノサマバッタがひょうひょうと飛び回っている。
そのトノサマバッタをカマキリが一瞬の動きで捕まえた。
食事中のカマキリのその横でおこぼれをもらおうと、アリたちが行列をなして並んでいる。
少女は風を背に、すっと、空を眺めた。
この子はとても悲しい少女だ。
悲しいだけじゃない、喜びも、楽しみも持っている。
でも少女はちっとも悲しくなんかなかった。
この空の下で。
「ジョーンズ。あの光の中にあなたがいるのね。絶対、またみつけてやるんだから。それまで、いつまでも、輝いていてね」
チラッっと白金の光が少女の銀河に瞬いた。
季節はこれからも巡り続ける。だからこの空にもいつかまた遭えることだろう。
こうして満天の光の中、少女はしっかりとその素足で大地を踏みしめて、家へと帰っていったんだ。
これで、なんにもない少女のお話はおしまいさ。