第二章 王都への誘い 2
彼自身自分の目で様子は見ているだろうが、改めてきちんとこちらの意見が聞きたいらしい。
「大分落ち着かれたように思います。まだ少し熱はありますが一日二日もすれば下がるでしょう。ただ、お身体の方はともかく、お心の方はもう少し時間がかかるかもしれません」
「そうか……なかなか都合良く、全快というわけにはいかないな。以前のあの子は、そう滅多に体調を崩すこともなかったのだが……」
以前の妹の元気な姿を知っている兄としては、どうしても今とのギャップが目に付くのだろう。そして純粋に心配になるのだ、あの頃の姿に戻れる時はくるのかと。
身内として、そう思ってしまう気持ちは判る。焦りのような焦燥感を覚えるのも仕方のないことだ。
けれど。
「……気長に見守ってさしあげてください。もどかしいでしょうが……レミシアーナ様も、今、ご自身の心と戦っておられます」
ノエルのその言葉に、ジークベルトは一瞬虚を突かれたように目を丸くした。
何かおかしな事を言っただろうか。また小さな不安を抱くが、次の瞬間見せてくれたジークベルトの笑顔に、余計な心配だったと知る。
先程の苦笑よりよほど穏やかな笑みだ。本来彼は、こんなふうに朗らかに笑う人なのかもしれないと思うくらいに。
「そうか。……そうだな、おまえの言うとおりだ。どうも私はせっかちでいかん。……では、おまえの方はどうだ」
「私、ですか?」
「何か足りない物や不自由していることはないか。スチュワートが、おまえから殆ど何も要求がないと首を傾げていたぞ」
スチュワートというのは、この家の家令の名だ。
すっかり髪や髭に白いものが混じり始めた、ジークベルトの父親世代の男性で、この家に関する一番古い出来事を知っているのもこの人物だろう。
何かに付け家令は、必要なものがないかと訊いてくれていたが、確かに今まで殆ど頼み事をしたことがない。
唯一頼んだ事と言えば、男物の身軽な服が欲しい……ただそれだけだ。
最初、ノエルの為に彼らは着替えを用意してくれていた。
若い娘らしく淡い花のような華やかな色合いの、ふんだんに布を使ったローブはとても美しく、手触りもこれまで触ったことがないような質の良いものだ。
娘であれば誰もが憧れるような衣装だった。
しかし仕事柄薬品や薬草を扱う事の多いノエルには、とてもではないがそんな上等な衣装に袖を通す気にはなれない。綺麗な衣装には若い娘らしく憧れるけれど、それ以上に汚してしまったらと思うと何もできなくなってしまう。
それでできれば男物の服を、と頼んだのだが……あの時の家令の怪訝そうな顔は、多分しばらく忘れられないだろう。
彼の顔にははっきりと、女性なのに男物の服を望むなどおかしいと、そう書いてあったから。
案の定、その話も家令からジークベルトの耳に入っているらしい。
「服も、本当にそんなもので良いのか。おまえの年頃だと、もっと美しい衣装やアクセサリーに心惹かれるものだと思っていたが。レミスなどあれがいい、これは気に入らないとかなり好みが煩いぞ」
そんなものと言い切られた、今身に付けている服を思わず見下ろしてしまう。
確かに華やかさに欠けた男物。それでもこれもノエルの希望を聞き入れた家令が手配してくれたもので、普段着ている物より遥かに上物だ。
むしろもっと安価なもので良いと頼んだくらいなのだが、限られた期間とはいえ、この家で寝起きするなら最低でもこれくらいのものは着て貰わないと困ると逆に頼まれた。
今ですら汚したり匂いを付けたらどうしようとヒヤヒヤしているのに、ジークベルトの目から見ると、そんなもの、で切り捨てられてしまうらしい。
「……私は、レミシアーナ様のようなお姫様ではありませんから。仕事ができる格好でなければ意味がありません」
「姫ではなくとも若い娘には違いない。おまえ、年はいくつだ」
「……先月、十八になったばかりです」
「十八と言えば娘盛りの年頃だろう。とっくに結婚していてもおかしくない。おまえを変わった奴だと判じるか、それとも仕事熱心な奴だと判じるか、判断が難しいところだな」
「そんなに、おかしいでしょうか」
再び自分の衣服に視線を落とす。物心付いた頃からずっと父や、近所の少年達のお下がりを貰って着ていたため、ノエルにとってはこれが普通だ。
だけどひょっとしたら自分の感性はおかしいのだろうかと、少し不安になってきた。
「おかしい、という程ではないが、私が知る限り女性が男装する姿は目にしたことがない。戦いの中、追い詰められた城主の妻が城を守るために……等と言った、特殊な状況を除けばな。おかげで最初におまえを見た時にも、すっかり少年だとばかり思っていた」
そう言われれば確かにジークベルトがそんな誤解をしていた事を思い出す。
あの時の彼の不思議そうな顔は、つまりそういうことかと納得した。彼の中で女性とはいつも美しく着飾り、華やかな装いで周囲の人々の目を楽しませる存在なのだ。
それに比べてノエルの地味すぎるほど地味な男装は、彼にしてみれば到底女性のものとは思えなかったと、そういうことらしい。
「この村ではおまえのように、女性が男装するのは当たり前なのか?」
「……いえ、そんなことはありません。…………多分、私だけだと思います」
自分でも改めてその事実を認めてしまうと、さすがに少し気持ちが沈む。ノエルとて綺麗なドレスやアクセサリーに憧れる気持ちは少なからずある。
でも、状況がそれを許さなかった。…………いや、違う。
村の少女達は、たとえ野良仕事を任されていても、水汲みなどの力仕事であっても、許される範囲で自分を飾る努力をしているではないか。
それなのに自分と来たら、仕事を理由に娘として必要な努力すらしていない。
本当にそれで良いのかと言われたような気分になって、表情が曇ってしまう。そんな様子に、さすがにジークベルトも踏み込み過ぎたと感じたらしい。
「いや、おまえが良いなら構わないんだ。価値観は人それぞれだからな。ただ、おまえのような娘なら、もう少し着飾ればさぞ似合うだろうと思っただけだ」
「私はそんな……ドレスなんて、似合いませんから」
「そうか? 確かに今は地味な印象ではあるが、よくよく見れば綺麗な顔立ちをしている。もっと娘らしい明るいものを身に付ければ随分映えると思うがな」
「えっ……」
思わず目を丸くして、それからじわじわと頬が熱くなるのを自覚した。そんなことを言われるなんて思ってもいなかった。
似たような事はこれまでにも散々、父を始め村の人々にも言われていて、その時には笑って聞き流せたのに、ジークベルト相手だと少し調子が狂う。
「……ええと……ありがとうございます……?」
「なんだ、その疑問形の礼は。まあ良い、気が変わったら遠慮なく言え。レミスが世話になっている礼だ、おまえが望むなら城の姫君にも負けない装いをさせてやる」
そう言ってジークベルトはまた笑った。この発言がディーンなど、村の少年達であれば冗談だと笑えたのに、ジークベルトが言うと全く冗談に聞こえない。
そして実際に冗談などではないのだろう。多分、間違いなく本気だ。
一体どんな顔をすればよいのやら、ただ曖昧に笑うしかない。
けれど、強い畏怖を感じていた青年が、これほど朗らかに笑う青年だったのだと知る事が出来ただけ、今のこの時間は意味のあるものだったと思う。
ノエルがそう感じた時、廊下の向こうからキースの姿が見えた。
どうやらジークベルトを探していたようで、いたいた、と呟きながらもこちらへやってくると、そのままジークベルトと何事かを話し始めてしまった。
王都がとか、軍がとか、そんな単語が聞こえて来たので、きっと何か仕事の話なのだろう。
公爵家は代々、国の騎士達を統率する将軍職を賜っていると聞く。彼らの会話の中には、国の深い部分に関わるものもあるだろう。
邪魔をしてはいけない。
ぺこりと頭を下げ、彼らの側から遠ざかると、応じるようにジークベルトが片手を上げ、キースはいつもの人懐こい笑みを浮かべてくれた。
どちらもノエルには遠い世界の住人だ。けれど今、この瞬間は、ほんの少しだけ遠いと思っていた人を身近に感じる事が出来たのだった。