第一章 黒衣の騎士 6
レミシアーナの側にいるはずのノエルが部屋の外で、落ち込むように俯いているものだから、その姿にもしかしたらと不安を抱かせてしまったようだ。
慌てて首を横に振る。そしてそれだけでは足りないと気付くと、彼らに道を空けるように扉の前から身を引きながら答えた。
「いいえ、先程無事にお目覚めになりました。今から皆様をお呼びしにいこうと思っていたところです」
とたん、まだ完全に身を引ききらないうちにジークベルトが大股に近づいてくる。扉の前にやってくるのはあっという間の事で、そのまま殆どノエルを押しのけるようにして室内に飛び込んでいった。
その後を追うように、ゆっくりと父と青年も部屋の中へ向かう。
席を外していたヘレナも丁度その頃戻ってきたようで、結局ノエルが部屋の前から殆ど動く必要もないままに、呼びに行こうとしていた全ての人間が揃ってしまった。
一番最後に再び部屋に戻ったノエルは、ベッドの傍らで妹の手を取りながら、その手に額を押し付けているジークベルトの姿を目にする。
一見身分の高い人間特有の威圧感や雰囲気から近寄りがたい印象を抱いていた青年だが、今の姿は自分達と同じ、妹の無事に安堵する一人の兄にしか見えない。
「……ごめんなさい、お兄様。きっと……沢山、心配させてしまったのね」
「おまえが無事なら、それで良い」
「……誤解をしないでね……私、別に死のうと思ったわけじゃないのよ」
「判っている。良いから、今はゆっくり身体を休めなさい」
兄の手が、優しく妹の髪を梳くように頭を撫でた。その兄の手の下で、レミシアーナが静かに目を閉じる。
そんな二人の姿を見つめ、何となくこの人達は大丈夫だろうと、そんな気になった。
心の傷が癒えるのにはまだ時間がかかるだろうが、親身になって支えてくれる存在があれば、また立ち上がる事もできるだろう。
兄の掛け値ない愛情は、きちんと妹にも届いている。
「感謝する、グローヴァ殿」
改まって父に向き直ったジークベルトが、心からの感謝の言葉を述べる。そんな若き公爵に父は笑いながら首を横に振った。
「私は何もしていませんよ。私が到着した時には既に適切な処置がとられていましたし、ご令嬢を救ったのも公爵家の皆様方のお力です」
「だが、あなたがいてくれたおかげで随分心が軽くなったのも事実だ。できることなら、せめてこの村にいる間だけでも、あなたには妹の主治医をお願いしたいのだが……」
医師になることは誰にでも出来るが、信頼出来る医師の数は少ない。
それは公爵家という強い力がある家でも確保するのは難しい問題のようで、ジークベルトの眼差しには切実な様子が窺い知れた。
確かに目覚めたとは言えレミシアーナはまだ心も身体も不安定なようだし、医療に明るい人間が側にいるのといないのとでは大きく違うだろう。
しかし父の患者はレミシアーナだけではない。もうしばらくすれば村の診療所には今日も他の患者達がやってくる頃合いだし、もしかしたら夕べだって他の急患があったかもしれないのだ。
一度に診ることのできる患者に限りがあるのは致し方ないことだが、だからこそ皆可能な限り平等に扱わねばならない。
それはジークベルトも判っているだろう。彼は何も父に、つきっきりでこの屋敷にいてくれと頼んでいるわけではない……ただ、何かあった時には最優先で駆けつけてきて欲しい。
そんな願いが透けて見えた。
領主である公爵直々に頼まれては、つれなく返すわけにもいかない。身分を笠に着た強引な頼みだと言ってしまえばそれまでだが、妹を案じる彼の気持ちも判らなくはないから、余計に理解を求めるのは難しそうに思える。
困ったように眉を下げる父と、願いを引き下げるつもりのないジークベルトの二人の顔を見比べて、おずおずと声を上げたのはノエルだ。
「あの……それでは、私が、引き続き姫様のお側に付いていましょうか」
即座にジークベルトの鋭い視線が向けられて、出過ぎた真似だったかとヒヤリと心が強ばるが、続く父が頷いた。
「そうだな、それが良いでしょう。頼めるかい、ノエル」
「……はい、公爵様がそれでよろしければ……」
ぎゅっとジークベルトの眉間に皺が寄った。彼としてはあくまでも父に頼りたいのだ。
当たり前だろう、医師として実績のある父ならともかく、自分はただの手伝い程度の認識しかないだろうし、いざという時に本当に役に立つのかと疑問に思われても仕方ない。
だがジークベルトも、自分が無理を言っている自覚はあるようで、この申し出を簡単に却下にはできないようだ。
そんな彼の背を押すように、父が言葉を添えた。
「娘は医師としてはまだ見習いの身ですが、足りないのは経験だけで、必要な知識や技術は充分ございます。私がきちんと育てておりますゆえ、ご安心ください。特に薬草学に関して言えば、娘は私を凌ぎます。閣下の役に立てるでしょう」
それにご令嬢にとっても、見知らぬ老いた異性の医師よりも、年の近い同性の方が頼りやすいでしょうと。
そう言われてしまうと、彼も否とは言えないようだった。
「判った。あなたがそう仰るのなら、信じよう。……世話を掛けるが、どうか頼む」
「……はい」
自分では、彼の希望に添っていないことは判る。
けれど父をずっとここに留めておくわけにもいかない。自分ならば……もちろん父に多少の負担はかけてしまうだろうけど、父が時間を拘束されるよりマシなはずだ。
理解して欲しい。父はこの村ただ一人の医師なのだ。
それに正直なところ、ノエル自身もこの少女の事が気になっていた。……正確に言えば、あの黒い蝶のようなものの事が、だ。
あれが消えてから、明らかに少女の様子が改善され、やがて目を覚ましたところを見ると、あの蝶が何らかの悪影響を及ぼしていた可能性は高い。
今は綺麗に消えたようだが、もし再び彼女の側に現れて、再び何か悪い影響を与えたらと思うとそれが心配だったのだ。
何せその存在は今のところ、ノエル以外には見えていないようだし……考えれば考えるほど、あれはあまり良くない存在のように思えてならない。
特に今のレミシアーナのように、心や身体が弱った人間の側には、近付けない方が良いと思ってしまう。
自分にどれほどの事が出来るかは判らないにしても、少なくとも今のところあの蝶を払う事は出来る。それだけでも随分違うような気がした。
「どうやら話は纏まったようだし、朝食にしないかい? レミスが目覚めてホッとしたら、何だか急に腹が空いてきて、さっきから俺の腹がぎゅうぎゅう鳴いているんだよね」
それぞれの言葉が途切れたところで、栗色の髪の青年がそう言った。とたん、彼の腹の辺りから、ぎゅるぎゅるとそれはそれは大きな音が響く。
慌てて青年が自分の腹を両手で押さえたが、音は随分長く尾を引いて聞こえ、まるで早く食べ物を寄越せと訴える抗議の声にも聞こえた。
ヘレナがそっと口元を押さえる。視線が誤魔化すように明後日の方向を向いたところからして、笑いを堪えているのだろう。
対するジークベルトの方は、露骨に呆れたような眼差しを向けると、やれやれと頷いた。
「緊張感のない奴だな。まあいい、ひとまずは朝食にしよう。よければグローヴァ殿も一緒にどうか」
「ありがたく頂戴します」
レミシアーナのことはヘレナに任せ、ひとまず食堂へ向かう事になった。
さっさと先に向かってしまうジークベルトや父の後に続いて良いものかと躊躇っていると、ノエルに笑顔で声を掛けてくれたのは先程の栗色の髪の青年だ。
「ほら、君も行こう。一晩中付き添っていて疲れているだろう? 食事をしている間に君の部屋を用意してもらうから、そこで少し休むと良いよ」
気遣ってくれる言葉は素直に嬉しかった。相変わらずジークベルトは少し近寄りがたいが、こちらの青年は彼に比べれば随分と話しやすい。
「ありがとうございます。……あの」
「ああ、そう言えば自己紹介がまだだったね。あっちの偉そうなのがジークベルト・オル・アルベーニ。現在のアルベーニ公爵家当主。そして俺はキース。フォルゲン侯爵家の気ままな三男だよ」
レミシアーナの名はもう聞いたよね、と言われて頷いたが、なんだか公爵や侯爵だのと言われても、一平民でしかないノエルには世界が違いすぎてピンと来ない。
「ジークやレミスとは幼馴染なんだ。殆どこの家に居候しているようなものだから、仲良くしようね。あと、レミスの件に関しては俺からもお願いするよ、俺にとってもとても大切な女の子なんだ。どうぞよろしく」
「……よろしくお願いします」
目の前に片手を差し出されたので、躊躇いながらもおずおずとその手を握り返した。すると軽く握り締められ、上下に腕を振られる。
にこりと笑うキースの笑みは最初の印象と変わらず人懐こい。少しだけ貴族相手で強ばっていた心を解してくれる。
「二人とも何をしている、早く行くぞ」
先を行っていたはずのジークベルトが、気付けばこちらを振り返っていた。
朝食の誘いに自分も乗って良かったのだろうかと案じたが、当たり前のように「二人とも」と一括りにしてくれたことに、何となくホッとした。
自分も一緒に行って良いのだと確信できたからだ。
その後、これまで経験したことがないような豪華な朝食を頂き、診療所へ戻る父を見送ってから、ノエルはキースが勧めてくれた通りに与えられた部屋で休息をとる事にした。
薬は沢山持ってきていても、着替えは何もない。それを見越したように部屋には既に寝間着が用意されており、ありがたくその寝間着に着替える。
が、普段自分が身に付けているものとあまりにも違いすぎる肌触りに、却って落ち着かない。この寝間着の生地は、ノエルのよそ行きの服よりもずっと品が良いのだ。本当に寝間着として扱ってしまって良いのだろうかと戸惑うくらいに。
だけど、長く迷ってはいられなかった。
何せ夕べは殆ど寝ていない。
もし自分が目を離した間に、レミシアーナに万が一のことがあったら、父も自分も、下手をすれば村の人達全員がただでは済まないかもしれないという思いが、ほんの一瞬もうとうととさせてはくれなかったから。
その為、ようやく落ち着き、腹が膨れた今になって急に強烈な眠気が襲ってきている。
ベッドも適度な固さで、シーツも掛布も値段を考えるだけ無駄だと思えるくらいの上物だ。
それらの寝具に包まれて、ぎくしゃくとしていたのは最初のうちだけで、すぐにノエルの意識は眠りの世界に引き摺り込まれていた。