第一章 黒衣の騎士 5
何とも奇妙な夜になってしまった。
急患だと夜遅くに叩き起こされたり、その家に連れて行かれることはこれまでに何度も経験しているので、それ自体を辛いとは思わない。
でもこんな身分の高い人の屋敷は初めてで、なんとなく身の置き所がない。
落ち着かない気分になりながらも、再度少女の様子を確認しておこうと、そっとベッドを覗き込む。
先程と様子は変わらない。
顔色は白く、瞼は固く閉ざされて、未だ開く気配はなさそうだ。その様子は深く傷ついた現実に戻りたくないと訴えている、少女の無言の抵抗にも感じられた。
だが、生きている限りはいつか必ず現実に戻らねばならない。今はただ、静かに彼女の身体が目覚めるまで待った方が良さそうだった。
「……この方の、お名前を教えていただけますか?」
ノエルと同じように令嬢の顔を見つめる侍女は酷く不安そうだ。多分、彼女付きの侍女なのだろう。
ノエルに声を掛けられて、ハッとしたように顔を上げると、ほんの一瞬だけ唇を引き結び、そして答えた。
「…………レミシアーナ様です」
レミシアーナ。
この国の神話に出てくる、水の女神の名前だ。慈愛に満ちた女神の名を娘に付ける、それだけでこの令嬢が家族に愛された存在なのだと判る。
「私は、ノエルと申します。短い間ですが、どうぞよろしくお願いします」
「ヘレナと申します。こちらこそ、姫様をどうかお願いします。私にできることでしたら、なんなりとお申し付けください」
ヘレナと名乗った侍女の顔には、明らかな疲労が見える。恐らくずっと側についていて休んでいないし、心労もあるのだと思う。
ここは自分が見ているから、休んでくれて構わないと告げようとして、寸前で口を閉ざした。
判ってしまったからだ、たとえそう告げてヘレナを自室に下げさせたところで主が気になって碌に休めないだろうと。それにさすがに今夜顔を合わせたばかりのノエルに、大切な姫君の世話の全てを任せて立ち去る事も出来ないに違いない。
辛い現実があるのは本当のことだろうが、多くの人がその目覚めを待っている。出来れば、そうした自身を思う人々の為に目覚めてくれないだろうか。
そう思った時。
『この子、今のままじゃ目を覚まさないわよ』
唐突に頭の中に響いた声にハッとした。
またいつもの声だ。
だけど、言うことがいつもと違う。大抵はノエルの考えることに否定的な言葉が多く、こんな忠告、あるいは助言めいた言葉は記憶している限り初めてのことだ。
このままでは目を覚まさないとはどういうことか。
じわりと嫌な予感が胸の内に広がっていく。声を無視することは簡単だが、もし本当にこの声の通り令嬢が目覚めなかったら、どんなことになるだろう。
当然目覚めなくては満足な水分も食事も摂れない少女の身体は、今以上に衰弱するだろう。
それにもし彼女が目覚めないまま万が一のことがあれば、きっと父だってただでは済まない。公爵とは親しい様子だが、彼の怒りを買うようなことがあれば、一介の医師でしかない父には為す術もないだろう。
もう一度、改めて少女を見つめてみた。様子は先程と変わらない、当たり前だ、ほんの数分の間で劇的に容態が変わるような状態ではない。
だけど……注意深く目をこらして見ると、彼女の枕元……首筋の辺りに、小さな黒い影が見えた。先程気のせいと思ったそれがまた黒い蝶の姿をして漂っている。
けれどそれが本当の蝶ではないことは、何となく判った。少なくともノエルが知っている、花から花へ移ろい蜜を求める、昆虫ではない。
これは一体何だ。観察していると、見られていることを意識するかのように、小さなそれがぞろりと動く……まるで生きているように。
これが何なのか、ノエルには判らない。同じようにレミシアーナを見つめるヘレナは、やっぱりその蝶の存在に気付いてもいない様子だ。
しかし判らないけれど、このまま放っておいてはいけない気がした。
躊躇いながらも、恐る恐る手を伸ばす。最初に目にした灰色の煙は、自分が近づくと隠れてしまったから、もしかしたらこの小さな黒い蝶も同じかもしれないと思ったのだ。
それは案外的外れではなかったようで、ノエルが伸ばした手から、明らかに嫌がるように黒い蝶が揺らぐ。
もし本当に生き物だったら、身を捩って手を避けるような、そんな印象だった。
さらに手を伸ばす。じりじりと蝶が離れていく……最後にその蝶を打ち消すように手を払うと、ノエルの指に触れたそれは空気に溶け込むように散り散りになって、あっけないほど簡単に消えていった。
その直後だ。
まるで死人のように青ざめていたレミシアーナの頬に、僅かに赤味が差したような気がした。顔色が悪いのは相変わらずだったが、少なくとも死人には見えない。
先程の黒い蝶のようなものが、この少女に何らかの影響を与えていたことは明らかだ。これで彼女は目覚めてくれるだろうか……それを確かめる為にも今は様子を見守るより他にない。
それにしても先程の蝶は、そして頭に響いた声は何だったのだろう。
何か、自分の知らない間に、知らないことが起こっているような、じわじわと足元からせり上がってくる得体の知れない不安を抱きながら、ノエルは一晩を少女の傍らで過ごす事になるのだった。
レミシアーナが目を覚ましたのは、その翌日の朝食の時間が間近に迫った頃である。
長い睫を震わせて、重たげな瞼をようやく開いた姿に、心底安堵する。
彼女は最初、自分の状況を理解できなかったようだ。
「……私……?」
どこか夢うつつな口調で、ぼんやりと呟くその声はひどく掠れている。丁度その時侍女は席を外していて、部屋にいたのはノエル一人だ。
「ご気分はいかがですか?」
できるだけ静かに声を掛けたつもりだけれど、やはり見慣れない人間の顔は令嬢を驚かせただろう。二度、三度と瞬きを繰り返し……それから彼女は、掠れて上手く出ない声を押し出すように、その口を開いた。
「……おまえは、誰……?」
「私は、この村の医師、グローヴァの娘のノエルと申します。あなたのお兄様に呼ばれて、父と共に参りました」
「お兄様……」
その表情が曇ったところを見ると、ぼんやりとした様子ながらも、彼女の心の中から兄の存在は消えていないのだと判る。
乾いた彼女の唇を湿らせるように、吸い飲みから水を数口飲ませた後で、ノエルはそっとベッドから下がると告げた。
「公爵様と、私の父、そしてヘレナさんを呼んで来ますね」
二人は途中で何度も様子を見に来ていた。特にジークベルトは妹の目覚めを今か今かと、不安になる心を抑えながら待ち続けているだろう。
早く知らせなくてはと身を翻す。
「……私、生きているのね…………」
すると、ぽつりと背後から聞こえた声に反射的に振り返った。
視線の先でベッドに横たわったままの令嬢は、宙を見つめたまま、こちらを見てはいなかった。
呟いた言葉の意味は何だろう。ただ事実を確認しているだけなのか、それとも死ねなかったことを悔やんでいるのか。
できれば前者の方であって欲しい。彼女の無事を願う人々の為にも。
「……すぐに戻ります」
掛けられる上手い言葉も思いつかず、まるで逃げるように部屋を出てきてしまった。
無事に目覚めれば、もう大丈夫だ。レミシアーナの身体は必要な処置をきちんと行えば、自然と回復するだろう。けれど心の傷はそう簡単にはいかない。
身体を元に戻すよりも、心が痛みを癒す、そちらの方がずっと辛い事になるだろうと思えば、無責任な慰めや励ましの言葉を口にする事もできなかった。
部屋の扉に背を預けるようにして、小さく溜息をついた時だ。
「おまえ、そこでどうした。まさかレミスに何かあったのか」
びくっと肩を揺らして顔を上げれば、廊下の向こうから父と、ジークベルト、さらにその後ろにあの栗色の髪の青年がこちらに歩み寄ってくるところだった。