第一章 黒衣の騎士 4
丁寧に時間を掛けて行った診察は、やがて終わりを告げた。
外傷もない、呼吸もしている、心臓の音にも問題はない。
ただ……少女の身体が憔悴している。この憔悴は、湖に落ちた事とは違う理由があるはずだ。
「朝まで待って、それでも目を覚まさないようでしたら、気付けの薬を使ってみましょう」
「妹は目を覚ますだろうか」
「お目覚めにならない方が不思議な状態です。とにかく、もう少し待ってみましょう」
とたん、公爵が細い息を吐いた。
振り返り見れば、彼は片手で自分の額を押さえ、苦渋の表情を浮かべている。
安堵した、しかし同じほど何かやりきれない感情を抱えているように見えた。
そんな公爵に改めて向き直って、問い掛けたのは父だ。
「しかし、一体何が原因でご令嬢はこれほど弱っておられるのですか」
「それは……」
「私が診察をここで終えて良いと仰るのであれば、無理にお聞きしません。ですがこれより先もお手伝いが必要であれば、お聞かせ願えますか」
公爵が言い淀む理由は何だろう。彼だけではなく、供の青年までもが苦いものをかみつぶしたような顔をしている理由と、同じなのだろうか。
言いにくそうなその様子から、無理に聞き出してはいけないのではと言う気分にもなるが、もし令嬢に何か持病があったり、身体が衰弱する理由があるのであれば、そこをきちんと聞いておかねば正しい治療が行えない。
じっと返答を待つ父に、公爵が重々しい口調で口を開いたのは、その後のことだった。
「……妹は、エセルバート殿下との結婚が決まっていた」
「第二王子殿下ですね」
エセルバート。その名を知らない国民はいない……当たり前だ、この国の王子の名だからだ。
ということはこの少女は、未来の王子妃となる人物なのだ。身分を考えれば、何の不思議もない。
「だが、妹と王子の結婚は破談となった。一方的に殿下の方から突然婚約を破棄なさったのだ。理由は……他に愛する女性がいるからと」
「そんな」
思わず声を漏らしてしまった直後で、慌てて自分の口を両手で押さえる。叱られるかと思ったが、公爵はノエルを一瞥しただけで責めることはないまま、話を続ける。
「妹は幼い頃から殿下の妻となるべく、多くの努力を重ね、そして心を寄せていた。その為……突然の婚約破棄と殿下の心が他にあると知らされて、深く傷ついてしまったのだ」
おまえを妻とし、愛することはできない。
なぜならこの心は既に別の女性のものだから、と。
仮にも、王家にも連なる血筋を持ち、大小五つの地方を治める公爵家の姫に対し、あまりにも情のない言葉だ。こちらを軽んじるにも程がある。
当然強く抗議したが聞き入れられなかったそうだ。公爵の方としても、そんな扱いをされてそれでもどうかお願いします、と頭を下げて妹を差し出すつもりにはなれない。
「私にとってたった一人の妹であり、両親のない今は唯一の家族でもある。その妹を手酷く傷つけられては、いくら王子とはいえ到底許せる話ではない」
しかし結局本人からの謝罪はなく、王や王妃の態度も曖昧なままだ。
代わりに王太子からの丁寧な謝罪を受けたが、あまりにも心ないやり方に納得できるわけもない。
一方的な婚約破棄は娘の経歴に大きな傷となる。
だが、それ以上に娘の心を傷つけたのは、やはり愛する人の裏切りだ。
毎日泣き暮らす妹が少しでも気分転換になれば。そして王家への抗議の意味も込めて王都を離れ、自領地の一つであるこの城へやってきたのだそうだ。
静かな場所で静かな時を過ごせば、少しは落ち着いてくれるかもしれないと、そう期待して。
だが……
「……妹は、魅入られたように自ら湖へ入ったのだと、目撃した侍女が証言している」
つまり今回のことは事故ではなく、自殺未遂だったと、そういうことなのか。
思わず眠る少女の顔を再び見つめてしまった。
まだ十五、六の少女だ。これほど愛らしく、身分にも恵まれた少女なら輝かしい未来が保証されていただろうに、自ら死を願う程追い詰められるなど、哀れすぎる。
そしてそんな妹を目にした兄の心労もいかばかりか。
「なるほど。事情は良く判りました、お辛い事をお話いただき、ありがとうございます。今夜のところは、こちらに待機させていただきましょう。ノエル、おまえはこのまま姫君の側についていなさい、お目覚めになったり、何か変化があれば呼ぶように」
「はい」
「何?」
頷く自分の返答に、別の人の声が重なった。それは公爵本人のもので、明らかに驚いた様子の彼にばつの悪い思いを抱いてしまう。
公爵令嬢の元に何の身分もない自分が付き添うなど、兄としては看破できないことなのかもしれない。そう考えたのだが。
「……失礼だが、いくらグローヴァ殿の子息とはいえ、少年を妹に夜通し付き添わせることは……」
思わず、ぐっと顎を引いてしまう。
ノエルの隣で父が苦笑するのが判った。
そしてこちらが何かを言うよりも先に、後ろから若き公爵の肩を叩いた者がいる。
「ジーク。その子、女の子だよ」
目の前の公爵と、そう変わらない年頃の青年だ。供の従者だとばかり思っていたが、公爵への気安い口調からそうではなく、親しい友人らしい。
明るい栗色の髪を持つ、人好きのする印象の青年で、確かによくよく見ると身に付けているものも他の従者達に比べれば上等な亜麻や毛織り物だ。相応に身分がある人物なのだろう。
ノエルより五つ六つは年上の男性にこんな事を言うのは失礼に当たるのだろうが、どこか融通の利かなさそうな公爵とは好対照に、人懐こい愛敬のある雰囲気の青年だった。
「……女!?」
一方、公爵……ジークベルトの方はと言うと、怪訝そうな眼差しを隠しもしない。その黒い目に、頭のてっぺんから足の先までじっと観察されているようで、居たたまれない気分に知らず知らず、身を小さく竦めてしまった。
そうした彼を窘めてくれたのは、やはり先程の栗色の髪の青年だ。
「ジーク。そう言う目で、年頃の女性を見ちゃいけない。騎士は常に婦女子に礼節をもって、親切に。そう教えを受けただろう?」
ごめんね、と言わんばかりににっこりと笑みを向ける青年の傍らで、ジークベルトが何とも渋い表情をした。青年はそう言ってくれるが、やはりジークベルトの方は不満そうだ。
「……あの……姫君のお側に付き添うのに、私が相応しくないのでしたら、どなたか別の方に……」
これほど大きな家格の高い家なのだから、侍女でも乳母でも他にいるだろう。自分が出しゃばってはいけないのかもしれない。
そんな気持ちで、恐る恐る申し出たノエルの言葉に、遅ればせながらジークベルトは自分の言動に気付いたようだ。
「……いや、グローヴァ殿の息女なら、当家の侍女より病人の扱いには慣れているだろう。……ノエル、と言ったか」
思いがけず名を呼ばれて、思わずこちらの方が驚いてしまった。どうやら彼は先程父が自分を呼んだ時の名を、ちゃんと聞いていたらしい。
「は、はい」
「何か必要なものや改善点があれば、そこの侍女でも、他の誰でも良い。伝えてくれ。……頼めるか」
「……はい、承知しました」
そう言われてしまうと否と答えるわけにもいかず、自分にできうる精一杯の仕草で頭を下げた。
宮廷の作法など何も知らないから、公爵ほどの身分の人に本当にこの礼で良いのかと不安になるも、ジークベルト自身の方はもうノエルから興味を失ったように視線を外し、父へと目を向けている。
「グローヴァ殿にも迷惑をかける。できれば食事や酒でも酌み交わしながら、ゆっくりもてなしたいところなのだが……」
「いえいえ、私は医者ですから。迷惑などということはありません。今は閣下もそのような時間を持てる心境ではないでしょう。また落ち着きましたら、いずれ」
父に対するジークベルトの言葉には、明らかな敬意と配慮が窺える。
一体この若き公爵と父との間に、どんな関わりがあるのだろうかと気になったが、今それを尋ねられる雰囲気ではない。
黙って口を噤むノエルと、令嬢付きの侍女を一人残し、父もジークベルトも、そして青年も静かに部屋を立ち去っていくのだった。




