第七章 言えない秘密 1
何か、夢を見ていた気がする。
でもその夢の内容が思い出せない。
ただひどく身体がだるくて、ノエルは瞼を開けることさえ難しいほどに重い自分の身体を、何とか無理矢理寝台から起こした。
両足を揃えてベッドの外へ出し……そこでふと気付く。
今、自分が身に纏っている衣装が、以前レミシアーナから譲り受けたローブである事に。
「えっ……」
思わず小さな声が漏れたのは、ノエル自身がそのローブに着替えた覚えが一切なかったからだ。
折角レミシアーナから美しい衣装を貰ったけれど、そんな上等な生地のローブを普段使いできず、それ以上に自分には似合わない……相応しくないと思う引け目から、大切に衣装箱にしまい込んでいたはずの衣装である。
夕べだって寝る前に、確かに寝間着に着替えたはずで、このローブには指一本触れていない。そのはずなのに、どうして今自分はこれを着ているのだろう。
そして、すぐに気付いた。ローブが薄汚れている。
特に裾の部分が土埃に黒ずみ、端がほつれている。
まるで何度も袖を通し、あちこちに出歩いた後のようだった。
「どうして……」
にわかに声が震えてしまった。だってノエルは全く記憶にない、自分がこのローブを着て外を出歩いたことなどない。
そのはずなのに、どうして。
その時ノエルの頭に蘇ったのは、つい最近見ている夢だ。自分が自ら着替えて、ローブ姿で外へ出歩き、あちこち彷徨く夢。
そう、夢だと思っていた。そのはずだったのに……
「夢じゃ、ないの……?」
どきんと心臓が嫌な感覚で脈打つ。そのまま全速力で駆けた後のように、どっど、どっどと激しく脈打つ鼓動を胸の上から両腕で押さえ込んだ。
そんな馬鹿な。そんなはずない。
どれほど否定を心の中で繰り返しても、他に今自分がこのローブを身につけている理由が思いつかなくて、背中に嫌な汗が流れ落ちる。
自分は、自分の知らない間に、知らない行動をしていた?
そういう病気があるということは、聞いた事がある。本人の意志に関わらず、眠りながらふらふらと出歩く……夢遊病が。
でもまさか自分がその病になるなんて、想像したこともなかった。
ただ出歩いただけだろうか、それとも記憶にも夢にも見ていないだけで、他にも何かをしでかしているのだろうか。
自分が知らない間に、知らない行動を起こしているかも知れない、という想像は、容易くノエルの心に大きな不安を落とした。
一体、どうしたらいいのだろう。
手紙で父に相談すべきか。でも相談してどうなる?
確実に治るとは限らず、いたずらに父を不安にさせるだけではないのか。
どちらにせよ、自分は近く村へ帰る。手紙を出したところで殆ど意味はない。
ならば帰ってから考えた方が良いか。
とにかく落ち着けと、繰り返し自分に言い聞かせた。動揺して不安になっても、何の解決にもならないばかりか、下手をすれば悪化するだけだ。
それに本当に夢遊病を患っているとは限らない。もう少し様子をみるべきだ。
……それが、問題を先延ばしにする言い訳でしかないと薄々感じながらも、この時のノエルは不安を無理矢理自分の胸の内に押し込むしかなかった。
よもすると、全身を不安でがんじがらめにされそうになる身を叱咤して、チュニックとホーズという普段の姿に着替える。
それから汚れたローブを隠すように抱え、そっと部屋を出た。
汚れてしまっているローブをこのままにする訳にもいかず、こっそり洗っておこうと考えたのだ。今の時間ならまだ屋敷の使用人の洗濯は始まっていない時間だし、手早く洗って部屋に干して置けば、夕方までには綺麗に乾くだろう。
急がなければ朝食の知らせが来てしまう。
足早に外へと向かったノエルは、けれど目的の場所に辿り着く寸前でその足を止めなくてはならなかった。
と言うのもあと少しで井戸、というところでばったりとジークベルトと出くわしたからだ。
「……じ、ジークベルト様……」
とたんに、ぎくりとした理由は何だろう。
おはようございます、と普段どおりに振る舞えば良いだけだと判っているのに、奇妙な気まずさを覚えて、腕の中の布の塊をぎゅっと抱き締めてしまう。
けれど様子がおかしいのはノエルだけではなかった。
ジークベルトの方もノエルと顔を合わせた途端、奇妙な仕草で身を引くと、ぎこちなく視線を逸らしたのだ。
これまでノエルが知る限り、いつも真っ直ぐに人を見る彼の、そんな様子にさすがにノエルも小さな違和感を覚える。
なんだろう、この違和感は。
「……あの……おはよう、ございます……」
「……ああ」
言葉少なに彼が答える。それきり、二人の間には重たい沈黙が落ちてしまった。
どうしよう、何かを言わなくてはいけない気がするのに、何を言って良いのか判らない。機嫌が悪いのだろうか、話し掛けない方がいいだろうか。
だけど戸惑うノエルの目前で、ジークベルトもまたどこか躊躇うように、二度三度とこちらを盗み見るような仕草を認めると、そういうわけでもなさそうだ。
結局、迷いに迷って、
「……あの、ジークベルト様は、このようなところで何を?」
そんな詮索するような言葉が出てしまった。
どこか憮然とした様子のジークベルトが短く答える。
「……眠気覚ましに、顔を洗いに来ただけだ」
「そ、そうですか」
「……」
「……」
何故か突き放されるような物言いの後に、再び沈黙が落ちてしまう。
彼の声に含まれた、少し苛立つような感情を敏感に感じとって、知らぬうちノエルは首を竦めていた。
怒っている?
でも、何に?
昨日、別れるまでは彼は普段どおりだったはずだ。ジークベルトが何に対して怒っているのかが全く見当が付かず、困惑ばかりが強くなる。
ただでさえ不安に陥っているノエルには、今のジークベルトの態度一つにさえより不安が強くなって、再び鼓動が滅茶苦茶に脈打つ音に息が苦しくなる思いがした。
「……あ、あの……」
理由の判らない沈黙に耐えきれず、何かを言おうとして、でも上手く言葉にならない。
どうしたら、と途方に暮れたとき。
「……お前は、ノエルか」
突然そんなことを言われて目を丸くした。
「えっ?」
彼が何を言ったのか判らなかった。否、言っている事は判る。でもその言葉の意図が判らなかったのだ。
「……あの……は、はい、私はノエルですが……」
答えながら、我ながら間の抜けた返答だと思う。自分がノエルなのは判りきっていることで、今更確認するようなことではないのに。
そのはずなのに……何かが、おかしい。
「……ジークベルト様?」
一体どうしたのか。自分が何かしでかしてしまったのだろうか。
だとするなら、何をしてしまったのか、それを教えて欲しい。
僅かに震える声で彼の名を呼ぶと。
「ノエル、お前は」
「はい」
「お前は……」
「……はい?」
不思議なことに、困惑しているノエル以上にジークベルトの方が不機嫌そうながらも戸惑っているように見える。
迷いと躊躇いがせめぎ合うような逸らされていた彼の瞳が再びノエルを捕らえる。
無意識の内に緊張で全身が強ばり、身構えてしまったノエルだったが。
「……いや、いい」
再び視線を引きはがすように顔を背けられて、何か肩すかしを食らったような思いがした。
拍子抜けしたように目を丸くするノエルに構わず、ジークベルトは背を向けると、彼女をその場に残し歩き出す。
再びその背に声を掛けられる雰囲気でもなく、ただ見送るしかないノエルへ、ジークベルトがその足を止めて振り返ることなく言葉を向けたのは、数歩先へ進んだ時だった。
「…………お前を、村へ帰すという話は撤回する。帰り支度はしなくて良い」
「えっ……?」
「帰らなくて良いと言っているんだ。いいか、私の目の届かないところへは行くなよ」
そして彼はすたすたと、今度こそその場を立ち去ってしまった。
ジークベルトが何に苛立ち、腹を立てているのか。
先程、何を言おうとしたのか。
昨日彼自身の口で告げたはずの帰村の指示を、どうして急に撤回したのか。
そして自分自身のことも……ノエルには、何一つ理解できなくて、しばらくの間その場に立ち尽くし続けていた。




