第六章 白き魔女 4
「レミシアーナへは私の方から告げておく。急な話の上、私が直接村まで送ってやれず申し訳ないが、道中危険がないよう数名供は付けるから安心して良い」
「……わ、私は……何か、失礼をしてしまったのでしょうか……?」
彼女がやっと口にした言葉は、そんな言葉だ。
あまりにも急な話に、どうやら彼女は自分が何か取り返しのつかない失敗をしてしまったせいかと感じたようだ。そのせいで暇を出されるのだと。
緩くジークベルトは首を横に振ると、片手を伸ばし、その手でノエルの頭を撫でる。
「いいや、お前は本当に良くやってくれた。……これは、私達の方の都合だ」
固唾を呑んで見つめてくる瞳に答えるように、理由を説明する。
貴族達の間で今やノエルの存在が大きく噂されていること。このままだとグラハムやコルッサのようにノエルに対して診察の依頼を持ちかけて来る者が多く出てくるだろう事。
既に複数の依頼が公爵家に飛び込んできており、日を追う毎に断れなくなってくるだろうと。
「お前が医師として名を上げるつもりがあるなら、それでも良い。……だがお前はそれを望んではいないだろう?」
「……それは……」
ぐっとノエルが息を飲む。
彼女は上手く隠していたつもりかもしれないけれど、ジークベルトですら気付くくらい、判りやすい。
そう、ノエルは望んでいないのだ。多分、多くの人の目に触れることを。
「で、でも、他の貴族の方からの頼みに答えずに姿を消しては、公爵家のご迷惑になりませんか? 今、アルベーニ公爵家は大変微妙な立場だと……」
それ以上先を言い淀むように口を閉ざす。
何故ノエルがそんな話を知っているのかと思ったが、少し考えればすぐに予想はつく。多分彼女自身が薄々肌で感じている部分もあるが、それ以上にコルッサ伯爵から何か聞かされたのだろうと。
「……それは否定はしない。しかしこれ以上お前を手元に置いておけば、私は今以上に公爵家の事情に巻き込み、お前の存在を利用せねばならない状況にもなってしまう。できればそれはしたくない」
「……」
再びノエルが顔を上げた。頭を撫で、するりと髪を撫でるように滑り落ちていくジークベルトの指を紫水晶の瞳が追う。
何かを訴えるようなその眼差しに、再び胸の奥がちくりと痛むような感覚を味わいながらも、噛み締めるように告げた。
「レミシアーナのこと、またその他の患者に対する治療について、お前には本当に世話になった。感謝している」
「そんな」
「……試合を見せてやると言った、約束を守れず済まない」
その時だ、ノエルは再びその目を大きく見開き、何かを言おうと唇を開き掛ける。
「ジークベルト様、私は……」
けれどやはり、それ以上先が言葉にならない。
代わりにどうしてか今にも泣き出しそうな表情を見せ、それからそんな顔を隠すように深く俯くと答えた。
小さな、よもすると聞き逃してしまいそうなほど小さな声で。
「……判りました。お言葉に、従います」
従順な言葉のはずなのに、何故かその声がジークベルトの胸を刺す。
これが正しいと判っているのに、何か自分は間違いを犯しているような、そんな気分になってしまった。
「……これまで、お世話になりました」
「その言葉はまだ少し気が早いな。私もまだ最後の礼は言わん、二日後までとっておけ」
「……そう、ですね……そうします」
ぎこちなく彼女が笑う。その笑顔はどう見ても無理に作ったもののようにしか見えなくて、ノエルが自分達との別れを惜しんでくれている気持ちが強く伝わってきた。
どこか頼りなげな姿に、再びジークベルトの手が彼女へ伸びそうになる……寸前で手を引いた。
その手が勝手に動き出すのをもう片方の手で止めるように押さえ、きつく握り締める。
軽い動揺がジークベルトを襲ったその理由は、自分の手を放っておけば無意識のまま、目の前の娘の肩を抱き寄せそうになったからだ。
そんなことをしてどうする。大体、何故そんな真似をする必要があるのか。そしてどうして……これほど手放しがたく感じるのか。
自分で自分の心が判らなくて、ジークベルトはわざと彼女から引きはがすように視線を逸らすと背を向けた。
「必要なものがあれば遠慮なく言え」
そしてそれだけを言い残して、半ば逃げるようにノエルの前を立ち去る。
「どうしたのさ。……そんなにノエルとの別れが辛いかい?」
大股に廊下を歩き、自分の執務室へと向かうジークベルトの後をキースが追って来た。
「何だかんだと二ヶ月以上も一緒にいたんだ、寂しく感じて当たり前だろう」
そうだ、それだけの間近くにいて、まるで身内のように過ごして来たのだ……別れを惜しむことの何がおかしいのか。
どこか言い訳がましく答えるジークベルトにキースはなおも何かを言おうとしたようだった。
が。
「レミスへは先にお前から説明しておいてくれ」
それより早くにキースの口を封じるように告げ、先へ進む。
「ええっ!? そりゃないよ!」
きっと妹はすんなり納得はしないだろう。理解はするだろうが、一つや二つの抵抗は見せるはずだ。それが判っていてキースへ押し付けた。
もちろん自分も後できちんと妹には説明するつもりだが……
背後から聞こえてくるキースの抗議の声を無視し、そのまま一人執務室へと辿り着いたジークベルトは、背後で部屋の扉を閉めた途端、その扉に背を預けて重たい溜息をつく。
仕方のないこと。
いずれは帰さなければならなかったこと。
その予定が少し早くなっただけのことだと思うのに……
「……参ったな」
自分でも思う以上に彼女との別れを惜しむ感情が、胸の内に大きく広がっている。
そんな自分の心に改めて気付き、途方に暮れる思いがした。
恩人の娘だからと、少し気を許して側におきすぎたのかもしれない。一度懐へ入れた者に対して情を移してしまいがちなのは、ジークベルトの長所でもあり短所でもある。
けれどこの時の後ろ髪引かれる思いを、ただそんな表現で終わらせてしまって良いものかどうかは判らなかった。
その日の後の時間を、まずノエルは方々へ別れの挨拶を告げる事に費やしたようだ。
間もなくして話を聞いたレミシアーナもジークベルトの元へ乗り込むようにやってきて、もう少しどうにかならないのかと訴えてきたが……彼女も貴族の姫だ。
今の状況を説明してやると、不承不承ではあっても理解せざるをえなかったようだ。
「……ずっと、一緒にいてくれたらって思っていたのに」
「お前の気持ちは判らなくもない。……だが、無理を言うな、ノエルにはノエルの人生がある」
「それは、そうでしょうけれど。でも、お兄様は本当にそれでよろしいの?」
どうしてか、この時ジークベルトはじっと妹の瞳に見つめられて、一瞬ぐっと顎を引いてしまった。
自分にとって良いか悪いかなど関係がない。
どうすることが一番正しいのか、その答えを探すだけだ。
けれど、何故自分はこれほど後ろ髪を引かれるような思いを抱くのだろう。彼女を村に帰したからと言って、二度と会えなくなるわけではないのに。
お互い生きてさえいれば、会おうと思えば会える、そのはずなのに……レミシアーナの問いに、結局ジークベルトは答えないまま口を噤んだ。
答えられなかった。
心の内側に複雑な感情を抱いたまま、時間だけが過ぎてゆく。ノエルが忙しく動き回るのと同じように、ジークベルトも御前試合に向けて自分の鎧や剣に槍の手入れを行い、愛馬の様子を見に厩へと向かった。
既にとっぷりと日は暮れて、もう床につくような頃合いになってしまったのは、それだけ細々とした仕事に忙殺されていたためでもあるが、昼間から心にしつこく残り続ける複雑な感情の吐き出し場所を求めたからだ。
普段公爵家当主として、ジークベルトは弱音や後ろ向きな発言をすることは許されない。
キースは自分のことを考えるより即行動派だと表現するが、ジークベルトとて行動するよりも先に思い悩むこともあるのだ。
気がかりはいくらもある。一つ一つ数え上げていけばキリがないくらいに。
そんなジークベルトの顔を見て、愛馬、ノワールが気忙しげにぶるっと鼻息を荒くした。ノワールなりに漂う雰囲気を何か察しているのかもしれない。
そんな愛馬の横面とたてがみを撫でてやって落ち着かせる。
どちらにしろあまりぐずぐず悩んではいられないと、己の感情を振り払うように頭を振ると、愛馬に就寝の挨拶を告げて厩を出た。
見上げればぽっかりと真白な月が夜空を彩っている。その形が真円を描くようになるまで、あと二、三日といったところだろうか。
自分の私室へ向かう道のりを、そんな夜空を見上げながら辿り始めたジークベルトは、けれどすぐに足を止める事になった。
視界の端を、何か白いものが横切ったような気がしたからだ。




