第五章 密やかに笑う声 6
「構いません、どうかお願いします!」
「……支度をして参ります、少しお待ち頂けますか」
男の、ノエルの腕を掴む手から力が抜ける。
ようやく解放されたものの、きっと服の袖の下にはくっきりと掴まれた指の跡が残っていることだろう。
しかしそれを確かめもせずに、自分の部屋へ戻ろうと踵を返したノエルは、そこで今度はジークベルトと真正面から視線を合わせる格好になった。
「……あの……」
勝手に話を受けてしまって、まずかっただろうか。詫びた方が良いだろうかと迷うノエルの瞳を見つめ、ジークベルトが沈黙していたのはほんの数秒のことだ。
何かを言いかけるように口を開いた彼女の言葉を遮るように、
「……馬の用意をさせる。表で待っているから、支度ができたら出てこい」
それだけを告げて、脇をすれ違っていった。
静かな彼の口調は怒っている様子ではないが、何か考えることはある様子だ。
それが何かが気になったが……今は引き止めて理由を問い掛けている場合でも、のんびり話をしている場合でもないと、彼の背から視線を引きはがすように前へ向けて、急ぎ自室へ戻った。
戻るなり鞄に必要と思われる薬や道具を手早く詰め込み、ずしりと重くなったそれを抱えて再びエントランスへ舞い戻ると、そのまま外へ出た。
言葉通りジークベルトが既に騎乗してノエルの到着を待っていた。
他にも先程のコルッサ伯爵と数名の付き人、そしてジークベルトの後ろにはキースの姿もある。
どうやら彼らも共に来てくれるつもりらしい。
すぐにジークベルトが目の前に手を差し伸べてくる。その手を掴み、彼の馬に乗せて貰うのもこれで何度目だろうか。
以前よりも確実に馴染みつつある彼の背後に腰を落ち着けつつ、鞄を肩に担いだまま両腕をその腰に回した。
すぐに馬が駆け出す。
自分で引き受けたことだというのに、どうしてかノエルは、馬の足が前へ進むたびに自分が抜け出せない何かに向かって、飛び込もうとしているような気がしてならなかった。
コルッサ伯爵に連れられて娘の嫁ぎ先である貴族の屋敷へ訪れた時、娘ナタリアの傍らにはその夫と思える男や義両親の他、教会の僧侶と思える僧服に身を包んだ男がいた。
きっと彼も伯爵、あるいはその家族に呼ばれて娘の治療に来たのだろう。
しかし僧侶には既に打つ手はないらしく、特別これと言ったことは何もしていない様子だった。
ノエルやジークベルト達を連れて部屋へやってきた伯爵の姿を認めると、ほんの一瞬その眉を顰め……けれどすぐに穏やかな口調で宥めるように告げてくる。
「ご家族として藁にも縋りたいお気持ちである事は理解出来ます。ですが伯爵。ご令嬢はご立派に現世でのご自分のお役目を果たし、無事神の御許へ参られるのです。悲しむ必要などありません、どうぞ温かく見守って差し上げましょう」
もちろんそのような言葉に伯爵は頷かなかった。それどころか死を匂わせる発言をしたことで、伯爵の柳眉がみるみるつり上がっていく。
「冗談ではありません、娘はまだ十九歳です、神の元に差し出すには、あまりにも早過ぎる……!! 神だなんだとあなた方は謳うが、寄進させるものは遠慮なく寄進させておいて、なのにこれと言ったことは何もして下さらない。あげくどうにもならなくなったら神の名を出すとはあんまりではありませんか!」
なかなかに手厳しい発言だ。案の定言われた側の僧侶は、途端にその顔を強ばらせて弾かれたように反論してくる。
「な、何を仰いますか。撤回なさいませ、そのお言葉は神に対する冒涜ですぞ」
しかし、やはりそんな言葉は伯爵には通用しない。
僧侶に対する不審も露わな眼差しを隠そうともせず、伯爵は険しい表情のまま告げた。
「申し訳ないが、今は悪魔に縋ってでも、娘を救いたい気持ちでいっぱいです。いまこの時、悪魔が取引を持ちかけてきたならば、私は躊躇いなく従ってしまうでしょう」
当たり前だが悪魔の存在を教会は忌避している。
僧侶の言葉を伯爵が受け入れる事ができなかったように、伯爵の言葉も僧侶は受け入れる事は出来ないようだった。
「なんと罰当たりな……天罰が下るまえに、そのお考えを悔い改めなさいませ」
「あなたにお願いしたことは、娘の治療です。それができず神頼みとし、あまつさえ子の命が救われることを願う親の想いが懺悔に値すると仰るのであれば、どうぞお引き取り下さい」
口調こそは丁寧だが、言っている事は思いの他辛辣だ。
もっとストレートに言ってしまうならば、口ばかりで役に立たないのなら出て行けと、そんな意味にとれるし、実際僧侶もそんな意味で受け取っただろう。
侮辱されたと言わんばかりに彼の顔がみるみる歪んでいき……そして伯爵の傍らに立ち尽くすノエルをじろりと見つめた。
はっきりと、睨まれていると判った。
彼にしてみれば自分の言葉に耳を貸さず無理を言い、それどころか自分では頼りにならないとばかりに連れてきた医者だか薬師だか知らない存在が腹立たしく感じたのだろう。
こんな小娘に何ができる。
まるで視線だけでそう言われているようだった。
「……そのように仰るのであれば、致し方ございません。私は失礼しましょう」
そのまま僧侶が部屋から出て行く。
肩をいからせるように立ち去っていくその後ろ姿は、明らかに怒りを孕んでいた。
その僧侶の後ろ姿を、最後まで見つめる事はノエルには出来ない。それよりも先に伯爵が縋るように、再び訴えてきたからだ。
「お見苦しいところをお見せしまして、申し訳ありません。お願いします、どうか娘を助けて下さい。ご覧の通り、もうあなた以外に頼れる者がいないのです……!」
伯爵の親心は充分理解出来るものだった。誰だって大切な家族や身内の命が危うい状況に陥れば、同じように必死になるだろう。
ノエルは改めて、娘の容態に目を向ける。そんな自分を、伯爵はもちろんジークベルトやキースも固唾を飲むように見つめていた。
どちらにしても僧侶をあれほど手厳しく帰してしまっては、確かにもう伯爵が頼れる存在は少ないに違いない。
自分にどれほどの事が出来るのかは判らないが、目の前に患者がいる以上は、自分にできることを精一杯行うだけだ。
「……出来る限りのことはさせて頂きますが、最初にお話させて頂きましたとおり、薬も治療も万能ではございません。それだけは、あらかじめご了承下さい」
告げて、そっと娘の傍らに歩み寄った。
集中したいからと、その場にいる人々には一度部屋の外へ出て貰い、ノエルは丁寧に時間を掛けて娘の診察を行って行く。
出来うる限り丁寧に診察した結果から言ってしまうと、状況としては大変厳しいと言わざるを得ない結論に辿り着いてしまった。
恐らく出産の際に悪いものが娘の身体に入ってしまったのだろうと思う。
その上難産だったこともあり、体力が著しく奪われたまま回復していない娘の身体では、その悪いものに打ち勝つだけの力が残されていない。
ひとまず少しでも娘の身体の助けになればと薬を調合して飲ませてやったが、その薬の助けでどうにかできる限界は既に超えてしまっているように思えた。
さて、どうしたものか……考え込むノエルの耳に、どこからか赤ん坊がむずがって泣く声が聞こえてくる。
まず間違いなく、この娘の産んだ子供だろう。
産まれてまだ半月にも満たないというのに、母を失おうとしている事を察しているかのように子供の泣き声は延々と続いたまま、なかなか収まる様子がなかった。
退出したはずの部屋に、再び伯爵が姿を見せたのは一通りの診察を終え、この事実をどう家族に説明すべきか考えあぐねていた時だ。
「……娘は、どうでしょうか」
「…………それが……」
恐る恐る尋ねてきた伯爵は、言い淀むノエルの口調と曇った表情に、はっきりと言葉にせずとも自分の娘の命が危うい事実を察してしまったようだ。
いや、元々危ないと言う事は理解していただろう。ただそれでも、もしかしたらと一縷の望みを抱いていた。その望みが叶わないと知った途端、彼は足元から崩れ落ちるようにその場に蹲ってしまう。
「大丈夫ですか!?」
目眩でも起こしてしまったのかと慌てて駆け寄る。項垂れる身体を支えようと手を差し伸べたその途端、がしりとその腕を掴まれた。
「……っ……」
服の生地ごと指が肌に食い込みそうなほど強く握り締められて、苦痛に顔が歪んでしまう。しかしそんなノエルの苦悶の表情にも気付かないまま、コルッサ伯爵は華奢な娘をその場に引き摺り倒すような勢いで縋り付くと、必死に訴えてきた。
「何とか……どうにかなりませんか……! あなたは今にも死んでしまいそうなほどの怪我を負った子どもを救ったと聞いています、どうかお願いします、私の娘も助けて下さい!」
「それは……」
「お願いします、娘を助けてくれるなら、私は何でもします! この先アルベーニ卿がどれほど宮廷で蔑ろにされたとしても、私は出来うる限り彼のお味方となることを誓います!」
コルッサ伯爵としては思いついた事をそのまま口にしているだけだろう。
でも、その言葉にすうっとノエルの心が冷えた。
この先、ジークベルトがどれほど宮廷で蔑ろにされても……
その言葉はもしも、という仮定の話ではあるが、同時に事実そんな扱いをされる可能性がある事を暗示していることに気付いてしまったからだ。




