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第一章 黒衣の騎士 3

 体勢が整う前に走り出した馬の震動で身体が落ちそうになり、咄嗟に伸ばした腕が男の腰に縋りいてしまう。

 すぐに無礼になると手を離そうとしたけれど、凄まじいスピードで走る馬の背の上で手を離せば、あっという間に落馬するだろう。

 この速度と高さから落ちては自分の方こそが助からない。

 青年も後ろから腰に回ったノエルの手を振り払おうとはしなかった。さらに馬の速度が上がる。

 背負った鞄の中で、ガチャガチャと器具と薬瓶がぶつかり合う音が、馬の蹄の音に紛れて聞こえた。

 割れないようにきつく布でくるんではいるけれど、大丈夫だろうか。

 チラリとそんな心配がよぎったが、今はそれを確認している余裕がない。振り落とされぬよう、青年の腰にしがみつく両手にこれまで以上の力を込める。

 必然的にぴたりとその背に張り付く格好になり、寄せた頬に彼の体温が伝わってきた。

 逞しい馬と同様に、その持ち主も相当に鍛え上げられた騎士だ。

 上等な毛織りの衣服の下には、無駄な贅肉など一つもない引き締まった筋肉が存在するだろう。しなやかなバネと力強さを秘めたその身体は、ノエルには決して手に入れられないものだ。

 それが少しだけ悔しかった。

 常日頃から自分が女ではなく男であればもっと父の助けになれるのにと思っているノエルにとっては、この青年のようにどこにも非の打ち所がない身体を持つ存在は、羞恥するよりも羨みの対象になってしまう。

 もちろん父がノエルに向かって「おまえが息子であれば良かった」などと口にしたことはない。逆にもっと娘らしくするよう望んでいると判っているのだが………女の身ではどれ程自分が父の傍にいたいと願っても、いずれは叶わなくなるだろう。

 どこの国でもそうだが、小さな村になればなるだけ、女は嫁いでこそ一人前だという意識が強い。

 いつまでも独り身でいる女は身体に不都合のある、女としては不完全な者だと言う不名誉なレッテルを貼られ、時には家族まで白い目で見られる。

 女がいつまでも一人でいることは、それだけで罪なのだ。

 早い者は十代半ばで嫁ぐ。ノエルの年齢は丁度結婚の適齢期である。

 今はまだそこまで切羽詰まった状況ではないが、いずれ自分の意志に関わらず結婚を考えねばならない時がくるだろう。どうしても女性が未婚を貫くと言うのであれば、この時代、この国では修道院へ身を寄せて神の花嫁になるしか道はない。

 男であればそんなことはないのに。

 医学を学びたいと願う気持ちと、自分自身に不安を持つノエルにとっては、少女達が夢や憧れを抱く恋や結婚はひどく恐ろしいもののように感じられる。

 だけど自分のせいで父が悪く言われるのは嫌だ。娘に手伝いをさせるために嫁にも出さない酷い父親だなどと、無責任な陰口を叩かせたくはない。

 だからどうしても思ってしまう。自分が男であれば、と。目の前の青年の逞しさは、そうしたノエルの劣等感を刺激する。

 もちろん、彼には何の罪も責任もないのに。

 ぐっと奥歯を噛み締めて固く目を閉じた。今考えるべきはそのようなことではなく、これからの事だ。

 早い馬の速度に合わせて、周囲の風景はぐんぐん後ろに流れて遠ざかって行く。

 振り落とされぬよう、そして舌を噛まぬようにするだけで精一杯だった。

 そうした荒々しい移動のおかげもあってか、目的の城には驚くほど早くに到着した。

 ごく短い時間の乗馬であっても、すっかりと萎えた足が地面を踏むと同時に崩れ落ちそうになるけれど、患者が待っているとなればおちおち蹲ってもいられない。

 何とか足腰に力を入れるノエルの前方を、同じように早馬に慣れていないはずの父が、意外にもしっかりした足取りで歩きゆく姿が見えた。

 慌てて沢山の薬や医療器具が入った鞄を抱え直し、後に続こうとした時、横合いからその鞄を掴み取る手がある。

 突然重たい荷物を奪われて目を丸くすれば、鞄を手にしているのは先程の青年……アルベーニ公爵その人だ。

「あ、あの、荷物は自分で……」

「いい。先を急ぐ」

 そのまま公爵は背を向けると振り返らなかった。周囲の共の人々も似たようなものだ、誰もノエルを振り返る者はいない。

 もたもたしていると置いて行かれる。未だ足の力は完全に戻ってはいなかったが、何度も転びそうになりながらも彼らの後に続いた。

 石造りの城内は驚くほど静まり返っていた。

 元々何年も人が来る事のなかった城だ。時々最低限の手入れがされるくらいで、主がやってきたのは本当に久しぶりのことなのだろう。

 無理もない、八年程前に端を発した隣国との戦いから、国内外共にきな臭い雰囲気が続いている。各貴族達は己の領地を守る為、自分の城と王城とを行ったり来たりするだけで精一杯だろう。

 最近はようやく少し落ち着いて来た様子だが、まだまだ完全な平穏がやってきたとは言えない。

 そんな状況の中での公爵家の訪れは、本当に異例のことだ。

 使用人達ももちろん随行してきたのだろうが、その人数も限られているようで、屋敷の中は圧倒的に人の数が少ない。

 ただ、掃除だけはしっかりされているようだ……そんな屋敷の中を足早に進む人々の後に、遅れぬよう続く。

 やがて辿り着いたのは、主人の居住区に当たる奥まった部屋の一室だ。多くの人々はその部屋の前で立ち止まっている。

「開けろ」

 命じる公爵の声に従い、部屋の前に待機してた侍女の一人が、扉を開いた。

 その向こうに広がったのは、いくつものランプの灯りに照らし出された寝室だ。一目で若い女性の部屋と判る調度品が並ぶ室内の一番奥に、大きな天蓋付きの寝台がある。

「失礼して構わないですかな」

「もちろんだ。どうか頼む」

 本来、公爵家の姫君の部屋に、自分達のような身分の者が足を踏み入れるなど考えられないことだ。しかし今は緊急事態であり、こちらは医師と助手である。

 躊躇わず室内に入った父の後に恐る恐る続く。

 天蓋から降りたカーテンをそっと開けば、その向こうで静かに横たわっていたのは、まだ十代半ばを少し越した程度の、ノエルより二つ三つ年下の娘だった。

 その少女を一目見た瞬間、ギクリと自分の身体が強ばるのを自覚した。

 豊かで艶やかな黒髪も、目を閉じたその顔立ちも、どことなくこの若き公爵に似ている。二人の間に血の繋がりがある事は一目瞭然だ。

 美しい少女だった。

 しかし、眠る少女の顔色は紙のように白い。

 元々肌が白いせいもあるだろうが、今は完全に血の気が失せている。薄い掛布の下で、僅かに上下している胸の動きがなければ、死人とすら思えたかもしれないほどだった。

 だがノエルを一番驚かせたのは、そんな少女を取り巻くように黒い影のようなものが彼女の周辺に漂っているように見えたことだ。

 ひらひらと舞うように揺れ動く姿は、まるで羽根を広げた蝶のようだ。

 いや、それは本当に蝶なのかもしれない。どこかから迷い込んだのか……躊躇いがちに歩み寄る……と、不思議なことにそれまで舞っていた黒い蝶がノエルが間近まで近づいたその途端にまるで逃げるように姿を隠す。

「えっ……?」

「どうした、ノエル。妙な声を出して」

 ぱちぱちと目を瞬かせていると、父がこちらを振り返り見る。怪訝そうな眼差しに、戸惑いながらも、

「今、黒い蝶が……」

 そう告げたが。

「蝶?」

 父や公爵も、揃って不思議そうな顔をする。自分が訴えているものを、彼らは認識していない様子だった。

「蝶が何だと言う」

 そんなものがどこにある、と言わんばかりの公爵の追求に、途端にノエルは先程自分が目にしたものが、本当に存在していたのかどうかの自信を失ってしまった。

 蝶そのものもすぐに姿を隠してしまったことも、確かに見えたと言い切る事の出来ない大きな原因だ。

 きっと光の加減か、何かの影がそんなふうに見えたのだろう。

「……いえ、何でもありません。申し訳ございませんでした……」

 力なく瞳を伏せ、サイドテーブルに置いた医療鞄に手を伸ばした。

 その間にも父は少女の手首や首筋から脈を測ったり、その心臓の音に耳を傾けたり、他必要な診察を始めている。

 不確かなことをいつまでも気にしていても仕方がないと、気を取り直すと父の次の行動を予測して、鞄の中から必要な器具を手渡した。

 そんな自分達の行動を、すぐ側で公爵がじっと見つめている。

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