第五章 密やかに笑う声 4
彼はただ訊いているだけだ、なのにこんな反応はおかしいと、慌てて口を開くが、その返答は何故かしどろもどろになってしまう。
「い、いえ、その……そういうわけでは……でも……あの、お顔の色があまり良くないように見えます。……お疲れなのでは……?」
二人の追求を逃れる為、ぎこちない話題転換になってしまった。
けれどジークベルトの顔色が普段よりさえなく見えるのは事実だ。こうして正面に回ってその顔を見上げればなおさら、顔色の悪さが目に付く気がする。
「……ああ……別に、大したことはない」
ジークベルトも自分の不調については自覚しているらしい。でも、それを構うつもりはなさそうだ。
その時ノエルは小さな異変に気付いた。
ジークベルトの後ろ……丁度肩の辺りに、何かふわふわと纏わり付く黒い影がある。もしやと目をこらして見れば、それは黒い蝶だ。
以前レミシアーナに纏わり付いていた、あの時の蝶と全く同じ。
「ジークベルト様」
直前までオロオロとしていたノエルが急に真顔になって、更に数歩歩み寄ってきた姿に彼が怪訝そうに眉を寄せる。
構わず背後に回り、
「失礼します……!」
そう一言断ってから手を上に伸ばすと、彼に纏わり付く蝶を払うように、手で数度軽く肩を叩いた。
とたん黒い蝶はあっけないほど簡単にかき消えてしまう。
それも、あの時と同じだ。
嫌な予感がした。その予感はじんわりとインクの染みが広がるように、ノエルの胸の内に広がっていく。
「? ……どうした?」
再び、不思議そうに振り返ってくる彼の目を見返し、尋ねた。
「ジークベルト様、今夜は宮廷の宴にご出席しておられたのですよね?」
「そうだが、それが何だ」
宮廷の宴に出席したジークベルトが、どうして黒い蝶を纏わり付かせて帰ってくるのだろう。
さすがにノエルももう、あの黒い蝶がただの幻や蝶ではないことは薄々感じている。恐らく自分の力に多少なりとも関係していることも。
そしてこの黒い蝶が、少なくともジークベルトやレミシアーナにとって良いものではないことも。
だけど……
「ノエル?」
問われて、ぐっと顎を引いてしまった。
どうしよう。もしも公爵家の兄妹が何か良くないことに晒されているのであれば……そう考えた時、
『喋っちゃえばいいじゃない?』
戸惑いに揺れる心を見透かしたように、あの声が聞こえた。
『心配なのでしょう? 話せばいいじゃない』
続けて更にそんな面白がるような言葉が続いて、唇を噛む。
喋るとは何をだ。どこまで?
彼らが何かに知らぬうちに巻き込まれているのなら、それを教えてやらないことは二人の兄妹をそうと知りながら見捨てるような気持ちがした。
だけど自分の力や事情について話せば、彼らはどんな反応をするだろう。
ジークベルトなら素直に聞いてくれるかもしれない……けれど同時に普通ではあり得ないその力に拒否反応を示される可能性もある。
ジークベルトとレミシアーナの二人に、異端の者を見るような眼差しを向けられたらと想像すると、とてもではないが打ち明ける言葉は口にできなかった。
そのことが、ノエルに強い罪悪感と共に心を塞いだ。
でも言えないのだ。彼らを信じていないわけではない……でも……父まで危険に晒すような賭けに出られるほど、自分に勇気がない。
「……いえ、あの……その宴で、何かあったのかと……」
結局口にできたことはあやふやな推測の言葉だけ。
案の定そんなノエルの問いに、ジークベルトもキースも少し驚いたように目を丸くしている。
自分でも出過ぎた問いだと判った。
すぐに、
「失礼を……」
謝罪して言葉を取り下げようとしたその時だった。
「……驚いたな、おまえは千里眼でも持っているのか?」
「本当に。まるで今夜、宴で何があったのかを知っているような感じだよね」
ジークベルトのみならずキースにもそう言われて、慌てて首を振る。もちろんそんなわけはない、そんな力などない。
だけど。
「……あの、本当に何か……?」
またも出過ぎた真似ではと思ったが、二人の様子がどうしても気になる。
何か、ジークベルト達が困った立場に立たされているのではと心配になったのだ。そんなノエルの不安に、彼らも気付いたように首を横に振る。
「おまえが心配するようなことはない。ただ……急に、御前試合が開催されることが決まったと言うだけの話だ」
「……御前試合?」
「まあ武術大会だよね。特別珍しい事ではないけど、さすがに開催まで半月とちょっとしかないような日程で突然行われることが決まるのはこれまでにない事だよ」
「半月と少し……何故そんなに急に?」
「……エセルバート殿下の婚約式が行われる。その余興らしい」
ジークベルトの返答に、思わずはっと息を飲んでしまう。
近くエセルバートとベロニカの婚約式が行われることは聞いており、その式にジークベルトも参加を命じられたという話も耳にしていたが、それだけでなくそんな大会も行われるというのか。
「……それは、ジークベルト様もご参加を?」
「不参加、というわけにはいかないだろうな。日頃から準備をしていれば、どうということはないだろうと、王子本人からそんな挑発を受けては……なんだ、おまえその顔は」
知らぬうち、ノエルは自分の顔がひどく引きつってしまっていることに気付いた。
慌てて頬を押さえるも、それで顔に浮かんだ感情が消えるわけではない。
思ってしまったのだ、あまりにもひどいと。ただでさえ心ない婚約破棄にレミシアーナが深く傷つき、家族としてジークベルトも辛い思いをしている上に、その当人の婚約式に出席を命じられる事さえ不当な扱いに思えてならないのに。
さらにその余興として自分達の為に戦って見せろなどと、普通の神経の人間には到底言えないことではないか。
それとも王家の人々は、そうした自分の「普通」で物事を図ってはいけないのか。
自分などがどうこう言えることではないと判っていても……込み上げてくるのは、確かな怒りの感情である。
「……だって……ひどいです……」
ノエルはあまり、怒りを表に出すことが得手ではない。争い事は嫌いだし、自分が我慢してそれで済むならその方がずっと簡単だ。
でも……心がむかむかする。自分でもこの感情をどうして良いのか、判らないくらいに。
その時、近くで小さく笑う息遣いが聞こえた。
何か、と思って顔を上げれば、どうしてかジークベルトが苦笑交じりな笑みを浮かべている。その後ろではキースも似たような表情をしていた。
「……あの?」
「いや。おまえがそこまで怒る姿を見るのは初めてだと思ってな。そもそも、怒る事などあるのかと思っていたくらいなんだが」
「……それは、その……申し訳ありません……」
「詫びる必要などない。おまえが怒ったのは、私達のことを考えてのことだろう、むしろ感謝せねばならんな」
ジークベルトの手が伸びてきた。大きな手の平を前に肩を竦めると、ノエルの頭を包み込むようにポンと手が下りてきて、ぐしゃぐしゃと頭を撫でられる。
地味であってもきちんと梳かし、一つに結わえた髪が乱れてしまう。困ってしまうはずなのに、その手の大きさと温もりに頬が熱くなった。




