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第五章 密やかに笑う声 3

 ぎゅっと奥歯を噛み締めた。

 きつく眉間に皺が寄る……視線を上げた先で、先程と変わらずエセルバートに身を寄せる寵姫、ベロニカの姿が見えた。

 ふと彼女の視線がこちらを向いた。

 少し距離がある、そんな場所であっても彼女の視線が自分の視線とぶつかった。

 本来、ここで機嫌を取るように微笑む事が賢いのだろう。

 既に彼女が第二王子のみならず、王や王妃にまで上手く取り入っていることは間違いない。

 だが……彼女に罪はないとはいえ、妹を嘆かせる原因となった女性に対して愛想を振る気持ちにもなれず、更に少し厳しい表情をしてしまったその時……まるで心得たように微笑んだのはベロニカの方だった。

 艶やかで美しい、一目で男を虜にする類いの彼女の微笑。

 噂によれば、エセルバートがレミシアーナからベロニカに目移りしたのは仕方がないと、そんなことを囁く貴族達もいるらしい。

 だが一瞬ジークベルトの息を詰めさせたのは、そうした微笑ではなく……彼女が微笑んだその途端に、突然周囲にふわりと滲み出るように何か、黒い蝶のようなものが舞い上がり、ぐっとこちらに向かって迫ってくるように見えたせいだ。

 しかもその蝶は、こちらが目を瞬いている間に、まるで幻のように消えてしまった。

 一体どこから蝶が入り込んできたのか。

 そして黒い蝶はどこへ消えてしまったのか。

 あるいは何か見間違えてしまったのか……蝶がすぐに消えてしまうわけがないから、きっとそうなのだろう。

 けれど何とも胸の内側を素手で無遠慮に撫でられるような、白い布が黒く染まっていく様を目にするような、この身に纏わり付く不快な感覚に、ジークベルトはそっと目を逸らした。

 その時だ。

 ベロニカの隣にいたエセルバートが、突然立ち上がり、声を張り上げたのは。

「父上、お願いがございます」

 突然何かと、会場にいる者達の視線が残らず第二王子へ向かう。

 そのエセルバートの言葉を受けて、鷹揚に王が顔を上げ、王太子が眉を顰める。

 それぞれの反応を見せる二人に向けて、エセルバートは言葉を続けた。

「近く、私とベロニカの婚約披露宴が行われます。それに伴い是非御前試合の開催をお願いしたい」

 どよっと場が大きくどよめいた。

「御前試合だと?」

「はい。ベロニカはまだ、我が国の勇猛なる騎士達の姿を知りません。王の騎士達がどれほど優れた我が国の誇りであるのかを、私は妻となる人に知って欲しい」

 言っている事はそれらしい理由を付けているようにも聞こえるが、つまり自分の寵姫を喜ばせるために多くの騎士達を巻き込んで余興を行おうと、そういうことだ。

 今の時代、御前試合……つまり武術大会はそれほど珍しいものではない。騎士達にとって戦場で手柄を上げるのと同じくらい、御前試合で勝利を重ね、その武勇を轟かせるのは名誉なことだ。

 だがこのように突然思いつきで開くことができる程簡単なものではない。

 どこの貴族家も御前試合があるとなれば自分の家の騎士達の中で、尤も腕の立つ者を呼び寄せたり、鎧を新調したり、馬の調子を整えたりとやらねばならないことは多い。

 案の定、この場に出席している貴族達の中には、明らかに困惑した表情を見せるものも多かった。

 だが。

「何もそれほど大きな物でなくともよいのです。参加出来る者が参加してくれれば良い。……尤も、誉れある騎士ならば、いつ何時何が起こっても即時対応出来るよう、日頃から準備をしているはずですが。……なあ、そうだろう、アルベーニ卿」

 突然名を呼ばれてジークベルトの口元が引きつりそうになった。

 名指しでこのようなことを言われて、否と言える者などいない。

 それでなくとも、この自分の目の前で「妻となる人」等と言う発言も相当な侮辱だ。

 けれどそれを表に出すことは許されない。

「……は」

 口元の強ばりを隠すため、そしてこちらの感情を読まれることを防ぐため、ジークベルトは短く答えてただ静かに頭を垂れた。

 そこへ口を挟んだのは、王太子イグニスである。

「待ちなさい、エセルバート。突然御前試合と言われても、そんな簡単な物ではない。もちろんアルベーニ卿を始め、皆有事の際の準備は万端だろうが、何事も手順というものがある」

 本来ならば突然無茶な事を言いだした王子を諫めるのは王の役目であるはずだった。

 しかしその王からの取りなしを期待出来ないと感じたのか、イグニスが告げるけれど。

「……まあ、良いではないか、イグニス。可愛い弟の折角の婚約披露宴だ。それに我が国の騎士達の勇猛さを、この目で確かめる機会は何度あっても良い」

「父上」

「それともおまえは、弟の幸福を祝う事は出来ぬと、そういうつもりか?」

 随分と意地の悪い言葉だ。イグニスは何も間違ったことは言っていない……そのはずなのに、この場においては正論を口にする王太子の方こそが無粋だと言わんばかりの王の言葉には、さしもの王太子も逆らう事は出来なかった。

「……いえ、そのようなつもりでは。ただ……適切な配慮と、準備を行う時間を騎士達に与えてやって欲しいと願うだけです」

 この場合王太子が口にした「適切な配慮」とは、アルベーニ公爵家に対してのものなのは明白だ。しかしその部分の言葉など聞こえなかったかのように王は聞き流し、後半の部分についてのみ言及する。

「戦はこちらが準備を整えるまで暢気に待ってはくれぬものだ。これは決定である。御前試合はエセルバートの婚約式の一週間前より行うこととする。我が騎士達よ、日頃の鍛錬の賜を見せてくれると信じているぞ」

 婚約式の一週間前。いまからもう半月強程度の日数しかない。

 王の決定に、気を取り直したように人々が応える勇ましい声を上げるが、その中でジークベルトは満足そうに頷くエセルバートに、微笑みながらそっと寄り添うベロニカの姿を見た。

 彼女は笑う、先程と同じように。

 一つ、二つ……また黒い蝶がひらひらと周囲を飛び回る姿がある。

 その蝶が一匹、ジークベルトの肩へ舞い降りた……とたん、ずんと身体が重くなった。まるで蝶が触れた場所から毒でも流し込まれたかのように身体が強ばって、呼吸さえ苦しくなる。

 耳元で、高い女の笑う声が聞こえた気がした。

 もちろんそんなのはただの幻聴だ。この場において女性はベロニカ一人しかおらず、そのベロニカはエセルバートの隣でただ微笑んでいるのみ。

 ぐっと奥歯を噛み締めて、己の身体に叱咤するように全身に力を込め、自由を取り戻したとき……先程の蝶は、やはりもう消えてなくなっていた。


 

 

 宮廷の宴に呼ばれて出かけて行ったジークベルトが屋敷へ戻ってきたのは、藍色の空の闇が深く辺りを包み込んだ、深夜の頃合いだった。

 彼が宮廷へ向かうのはいつものことだ。

 普段ならば先に休ませて貰っているところだったが、この時は何か自分でも上手く説明できない胸騒ぎを覚え、乾燥させておいた薬草の整理をしながら帰りを待っていたノエルがエントランスへ下りていくと、家令が屋敷の主人とその友人を出迎えているところだった。

「お帰りなさいませ」

 無事なその姿に少しホッとする。

 おかしな胸騒ぎに、ひょっとしてジークベルトの身に何かあったのではと不安に感じていたが、どうやらそんなことはなかったらしい。

 臆病な自分の心に苦笑しながらそっと彼の元へ歩み寄れば、ジークベルトの方は出迎えてきたノエルの姿に目を丸くする。

「なんだ、こんな時間だと言うのにまだ作業をしていたのか? あまり根を詰めるな、おまえが過労で倒れても、私には側についていてやることくらいしかできないんだぞ」

「……側についていて下さるのですか?」

 彼の言葉に驚いて、つい鸚鵡返しに繰り返してしまった。

 だがどうやらこの場においてノエルのそんな反応は少し無粋であったようだ。

 ジークベルト自身も問われて初めて自分が口にした言葉を意識したらしく軽く目を見開き……それから少しばかり不機嫌そうに目を逸らす。

「言葉のあやだ」

「……そ、そうですよね……済みません」

 しかし不機嫌そうなのはその素振りだけで、何となく照れ隠しのような気もする。そう感じるのは、ノエルの自意識過剰だろう。

 ばつの悪い、でもどこか面映ゆい気持ちで謝罪すれば、そんな二人の姿にキースが何とも言えない眼差しを向けている。

「ひょっとして、ジークが戻るまで待っていたの?」

「えっ……」

「……そうなのか?」

 キースの様子に、どうしたのだろうと思っていた矢先の指摘に、思わず虚を突かれて頬に熱を感じた。

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