第四章 噂の始まり 7
その手が届く寸前で、彼の方からノエルの手を掴み、馬へ乗り上がる手助けをしてくれる。
ノエルが腰を落ち着けたのは、ジークベルトの広い背の後ろだ。
ほどなくノワールが小走りに駆け始めた。振り落とされることがないよう、控えめに彼の腰に縋りながら、ノエルは何とも言えない感情を噛み締めていた。
『心根の美しい者』
と、そう自分のことを評してくれた彼の言葉が頭の中に蘇る。
それ自体は嬉しいし、少し照れ臭い。
でも……必ずしも彼の言葉が正しいわけではない……そんな気分にもなってしまうのは、自分の保身のために隠し事をしている事実に後ろめたさがあるからだ。
本当に心根が美しいのは、ジークベルトのように真っ直ぐな心の人ではないだろうかと……その時、突然目の前にふわりと小さく真っ白な蝶が横切ってきた。
その白くひらひらと舞う姿が視界に入ったとたん、心臓が一つ、嫌な跳ね方をする。
一瞬、自分が知らないうちに左手の力を使ってしまったのかと思ったのだ。
しかしそうではない。その蝶はきちんと命を持った現実の蝶だ。その証拠に目の前を横切る蝶の姿を、隣に並んで馬を走らせるキースも目で追っているではないか。
気にしすぎだ。どうも子どもの命を力で救ってから、自分が必要以上に神経質になっているような気がする。
あれはもう過ぎたことだ、忘れてしまえ。
そう心の中で自分に言い聞かせるのに、何かが忘れてしまう事を許さない……そんな気がした。
ぎゅっと奥歯を噛み締めたとき、不意に耳元でくすくすと誰かが笑う声がする。
今度の声は、現実のものではない……ジークベルトもキースも今は笑っていない。
第一、聞こえてくる声は男性の物ではなく……自分と同じ年頃の女性のものだ。
その声に聞き覚えがあった。そう、いつも聞こえてノエルを悩ませる、あの自分にしか聞こえない声だ。
ここしばらく、しんとなりを顰めたように聞こえてくることが無かったと言うのに、今思い出させるように聞こえて来た声に、何となく心がざわつく。
声はグラハムの屋敷に辿り着くまで聞こえた。まるでノエルに忘れることなど許さないと言わんばかりに。
聞こえてくる声に耳を塞ぎ続けながら、ようやく辿り着いたグラハムの屋敷は、アルベーニ公爵家よりもこぢんまりとした、けれど居心地の良さそうな柔らかな雰囲気が漂う小さな屋敷だった。
グラハムはこちらの到着を今か今かと待ち構えていたようで、馬の騎影が見えた時点で外に飛び出して、一行を出迎えてくれた。
グラハムの娘、イリーナは今年十三歳。
冬に高熱を発する病を得てから、一応は回復したそうだが、それから度々体調を崩す事が増えたのだと聞かされた。
実際顔を合わせてみると、確かに令嬢の顔色はあまり良くない。
だがそれは体調が悪いと言うことよりも、殆ど一日中部屋に閉じこもってじっとしていることにより、体力が落ちていることが原因のように感じられる。
始めイリーナはノエルの姿に多少の警戒をしてみせた。
何でもこれまで招かれた僧侶達は治療という名目で瀉血の為に刃物で皮膚に傷を付けられたり、針で皮膚を刺して身体を刺激するような、痛みを与える事ばかり繰り返されたせいらしい。
「……あなたも、痛いことをするの?」
まだいとけない年頃の少女の目が、不安げにこちらを見つめていた。
「いいえ、痛いことは何もしません。ただ少し、身体に触ることと、お話をすることを許してください」
けれど根気よく穏やかに語りかけるノエルに、ほどなくイリーナは警戒を解いたようだ。同性であることも、彼女の警戒を解く助けになったらしい。
やはり女性にとって身内でも夫や恋人でもない異性……それがたとえ医師や僧侶であったとしても、身体を探られることは強い羞恥と拒絶を感じさせる行為の一つだ。
それはイリーナのようなまだ幼い年頃の少女でも変わりなく、その為女性は体調を崩してもその身体を診察させる事を嫌って、病を悪化させてしまうことも少なくない。
そういう意味でも、ノエルのような医療に従事する女性は特に女性の患者にとって貴重な存在であると言えるだろう。
「……どうだろうか」
一通りの診察を終えて、イリーナの部屋から出てきたノエルに、部屋の外で待っていたグラハムが心配を押し隠せない様子で尋ねてくる。
彼の隣にはジークベルトとキースも共に診察を終える時を待っていた。
そんな彼らにノエルは、あくまで自分の所見ですが、と前置きをした上で答えた。
「お嬢様は、多分血が下がりやすい体質で、その症状が少し重く全身に影響が出ているのだと思います」
「血が下がりやすい?」
グラハムの声には「血が下がりやすいはどういうことだ」と言わんばかりの感情が透けて見えた。
そんな彼の言葉に少しばかり言いにくそうに言葉を濁しながら、ノエルは続ける。
「血が薄い……というのでしょうか。例えば伏せていた頭をふっと上げた時、あるいは立ち上がった時……すうっと頭から血の気が引くような感覚にお心当たりはございませんか」
「それは……確かに」
「ひどいと息切れや動悸や目眩の他、突然倒れてしまうことがあります……特に、お嬢様のような年齢の少女は…………その、女性特有の障りで身体が不安定になることも」
一瞬だけグラハムがぐっと顎を引いた。言葉を濁したが、ノエルが何を指摘しているのかは彼にも判ったようだ。
しかし父親ではあっても、娘の月経について指摘されると反応に困るらしく、彼の視線が泳ぐ。
「……それは、治るものなのですか」
「食べる物に気を使うことと、手持ちの中で有効な薬草がありますから、それをしばらく毎日定期的に煎じて飲ませてあげて下さい。あと、後程料理人の方とお話させて頂けますか?」
「それはもちろん。他に気をつけることはありますか」
少し考える仕草を見せて、それからノエルは控えめに口を開いた。
「…………今後は瀉血はお止めになられた方がよいと思います。全く効果がないとは言いませんが、恐怖心をお持ちのようですし、お嬢様のような方には逆効果かと。それに……やはり痛みを伴いますので」
グラハムの顔に苦い表情が浮かぶ。ノエルが止めた方が良いという瀉血を、これまでに何度も僧侶が行っていることを知っているからだ。
それに瀉血は身体から血を抜く為に、どうしても傷を付けねばならない。
嫌がって、時には涙を流すイリーナの姿に、病を治す為だからと目を瞑ってきたが……それらが逆効果と言われてしまうのは、グラハムにとっても辛い事だろう。
しかし彼は長く沈黙してはいなかった。
すぐに顔を上げ、
「承知しました。感謝します」
と、礼を述べて力強く頷いた。
イリーナが目に見えて回復し始めたのは、その二、三日後のことだ。
もちろんその程度の日数で全てが改善されるわけではないのだが、適切な薬を与えられたこと、そしてもう痛い思いをしなくても良くなったこと……つまり、精神的な負担が軽くなって、それが顕著に身体に表れた結果らしい。
まだまだ薬も食事療法も長い目で行っていかなくてはならないけれど、どんな僧侶に見せても回復しなかった娘が笑顔を見せるようになってくれると、それだけでもうグラハムにとっては救いに等しい。
屋敷を辞した後日、改めてグラハムと顔を合わせたジークベルトは、
「いやあ、見た目は一見頼りない印象がありましたが、本当に素晴らしい! 私は感動しました、我が国の医師や僧侶達は全員、彼女に師事を仰ぐべきです!」
そんな大げさな台詞と共に、興奮した彼に散々肩やら背中やら叩かれて帰ってきたらしい。
屋敷に戻るなり、「やれやれ」と呟きながら長椅子に腰を下ろしたジークベルトが襟元を緩める。
その時、上等な毛織りの上着と亜麻のシャツの内側の褐色の肌に、チラリと傷のようなものが見えた気がした。




