第四章 噂の始まり 4
外へ向かう廊下の途中、不意に背後から呼び止められて振り返れば、見知った人物がこちらへ大股に歩み寄ってくる姿が見えた。
その場で立ち止まっていると、すぐに相手は目の前にまで迫り、そしていささか大仰な仕草で左手の拳を右肩に押し当てる、騎士の礼を向けてくる。
アルベーニ公爵、ジークベルトは数多く存在する騎士達の中でも長身の方だ。
筋肉隆々の巌のようなタイプではないが、黒衣で包んだスッキリした均整の取れた体格と長身が映える見栄えのする青年である。
だが目の前に歩み寄ってきた人物は、そんなジークベルトより手の平半分ほどは身長が高い。その分肩幅や胸囲、腰回りも丸太を二つ三つは並べたような厚さで、頑健という言葉をそのまま形に表したような体格をしている。
身体が大きければ、声も大きい。
「呼び止めて申し訳ない、ジークベルト卿。突然の無礼をお詫びする」
その声は廊下の端と端にいても通りそうな大きさだ。
優雅な雰囲気や仕草を愛する宮廷人からはその大きな声が無粋だと眉を顰められていることを知っているが、ジークベルトはこの人物には悪い感情を抱いていない。
むしろ裏表のない人柄に好意を持っていた。
その人物の名は、グレハム・エルダーと言う名の、伯爵であるのと同時に優れた騎士でもあり、ジークベルトと同様に国で十名存在する将軍の一人でもあった。
年の頃は三十後半とジークベルトより十五も年上だが、まだまだ体力が衰える事もなく脂の乗った男盛りで、大柄な体格がまるで熊のようだとご婦人方の間では不評ではあるけれど明朗な性格が部下達にも慕われている。
いわゆる同性に好かれるタイプだ。
同じ将軍の中でも特に親しくしている人物の一人でもあった。
レミシアーナの婚約破棄騒動の際にも、王家の理不尽な仕打ちに共に憤慨し、傷ついた少女の心を慮ってくれた実直な人物で、宮廷で心許せる数少ない存在でもある。
「いかがしましたか、グレハム卿。そのように慌てて」
「貴卿がこの騎士団に顔を出していると聞いて、急いで追って来たのです。あなたにお頼みしたいことがありまして」
「頼みたいこと……?」
怪訝とまでは言わないが、不思議そうな声音のジークベルトの目前で、グレハムは大きくその両腕を広げて見せた。
何か感動したり、感心した時に彼が見せる癖だ。
それは判ったが、一体何に感動、あるいは感心しているのか、ジークベルトには全く想像が付かない。
「どのような事でしょうか。私でお力になれると良いのですが」
「いやいや、あなたにしかお頼みできない事です。失礼を承知で申し上げるが、貴家の医師をお貸しいただけませんか」
医師、という言葉で即座にジークベルトの頭に浮かぶのは、ノエルの姿だ。というよりも、他に心当たりがない。
だがどうしてグラハムが、ノエルの存在を知っているのだろう。
ジークベルトは彼女の事について宮廷はもちろん、他者に話したことなど一度もないのに。
純粋な疑問から、先程よりもはっきりと怪訝に眉根を寄せたジークベルトの表情で、グラハムは突然の申し出に相手の機嫌を損ねてしまったかと勘違いしたようだ。
「本当に、突然で申し訳ない。この通り、深くお詫びします」
「……いえ、それは構いませんが……どのような理由かお聞かせ願えますか」
「もちろんです! 実は……」
蕩々と語り出したグラハムの話によれば、彼の一人娘がここ最近体調を崩し、寝付いてしまっているのだという。
もちろん知り合いの医師にも、教会の僧侶にも診て貰ったが原因が判らず、処方された薬を与えても一向に改善する兆しがない。
どうしたものかと悩んでいると、アルベーニ公爵家が腕の良い医師を抱えていると噂で耳にした。それで藁にも縋る思いで、こうして頼みにきたのだそうだ。
彼の娘は十三歳の少女である。たった一人の娘をグラハムが溺愛していることは、ジークベルトも知っていた。
「それはご心配ですね。でも噂とは一体?」
「噂をご存じないのですか? 今、王都の庶民の間では有名ですよ。何でも王都へ来る途中、大怪我を負い難儀していたところに、通りがかったアルベーニ公爵と、その家の医師に救われた親子がいると」
「……」
「命を落としてもおかしくない程の大怪我だったとか。にも関わらず、見事な腕で救ってくれたと噂になっています」
頭に浮かんだのは保護していたあの親子だ。
彼らは、子どもの容態も随分落ち着き、これ以上世話になることはできないからと、つい三日前に屋敷を出て王都の親戚の家へ身を寄せた。
容態が落ち着いたとは言え、完治したわけではないから、その後もノエルが往診へ向かうと約束をしていて、確かその約束の日が明日だったはずだ。
親子にとっては息子の命の恩人だ。
多少話を盛って、友人知人に話して聞かせたとしても不思議ではないが、それにしてもたった三日でグラハムのような貴族の耳にまで届いたというのだろうか。
あまりにも噂が広がるのが早い気がする。
詳しく話を聞いて見れば、どうやらその噂はグラハムの指揮下にある平民の騎士が聞きつけてきたらしい。
そしてアルベーニ公爵家が通りすがりの庶民を助けたこともそうだが、お抱えの医師に治療を命じたという話も庶民達の間では美談として広がっているそうだ。
そして公爵家お抱えの医師であれば、その腕はお墨付きだろうと。
「その話を聞き、このグラハム、大変な感銘を受けましたぞ。さすがジークベルト卿、民人を思うお心の広さとお優しさ、我々もよくよく学ばねばならぬと思います」
「それは少々大げさでしょう。たまたま事故の現場に立ち合っただけです。同じ事があれば、同じようにグラハム卿も手を差し伸べられたに違いない」
「ですが、助けるどころか素通りする貴族も多いのは確かです。お聞きになりましたか、カッサンドラ侯爵などは、つい先日ご自分の馬車の前にうっかり飛び出してしまった子どもを、ご自分の進行を妨げたという理由で容赦なく無礼討ちになさったのだとか。まだ五つ六つの幼子だったと聞きます」
「……カッサンドラ侯爵ですか」
その名を持つ人物にあまり良い噂がないことはジークベルトも知っている。
今回のような無礼討ちはもちろんのこと、下級貴族や平民の娘、あるいは人の妻を無理矢理手籠めにしたという話も耳にしたことがあるし、横柄なその態度に反感を抱く貴族も多いのと同じくらい、その権力に阿る貴族も多い。
ジークベルトに対しても表向きは恭しい態度を見せるが言動はどこか慇懃無礼で、年若くして公爵位を継いだ自分の事を不相応だと裏では批判していることも知っている。
今回の婚約破棄騒動でも、彼は大層楽しげに、当然の結果だと嘯いていたとか。
正直あまりにも程度が低すぎて、相手にもしたくない人物だ。
だがそういうわけにもいかない事情があった。
こちらにとっては大変不愉快なことだが、カッサンドラ侯爵は第二王子エセルバートがレミシアーナから心変わりした娘がいると知るや、驚くほど素早い行動でベロニカ・ブローマーの宮廷での後見を買って出たのだ。
ベロニカの父親のブローマー男爵では、王子妃を輩出する家としては力が弱すぎる。その点自分が後見に立てば、ベロニカも心許ない身の上が確かになる。
必要であれば、カッサンドラ侯爵家に養女として迎え入れ、それから王子の元へ送り出しても良いだろうと……そんなふうに嘯いて。
事実は野心半分、ジークベルトへの当てつけ半分。
それがまたエセルバートの心変わりを増長させ、妃は何もレミシアーナでなければならない理由はないのだと言わしめさせた理由の一つでもある。
正直なところジークベルトは、何故カッサンドラ侯爵がアルベーニ公爵家に対してそれほどの敵愾心を抱くのか判らない。だが、長く王家からの信頼を得ていた公爵家に力が集中することを嫌う貴族は少なくない。
レミシアーナが王子に嫁ぐ事によって、更に王家と公爵家との繋がりが深くなることを面白く感じてはいなかったのだろうと、そう認識している。
こちらにしてみれば余計な邪推でしかないのだが……どちらにしても到底親しくできる人柄でないことだけは確かだ。
「……愚かな事を。民人あってこその、国でしょうに」
「全くです。ですが、そこを勘違いしている貴族が多いのも事実……少なくとも我らは民に誠実でありたいと願いますが……と、話が逸れてしまいましたな。そんな事情でありまして、どうかお聞き入れいただけませんか」
グラハムの事情は理解した。
しかし、ジークベルトはここで安易に頷いてしまってよいものか、迷った。




