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第一章 黒衣の騎士 2

 それから三日ほどは特に変わったこともなく過ぎた。

 唯一変化があったといえば公爵家の滞在している城に時々村の人間が食材を運び込んだり、頼まれた使いをこなす程度のことであり、それもこちらの日常的な生活に支障が出ると言うほどのものではない。

 きっとこのまま何事もなく過ぎるのだろう……そう思っていた頃、唐突に変化が訪れた。

 本来ならば顔を合わせるどころか、近付く事さえ出来ない雲上人が自ら二人の元へと降りて来たのである。

 月の鮮やかな夜だった。

 いくつもの小さな星が周囲を彩って、この田舎でも珍しいくらいの満天の星空の下、馬の蹄の音が物々しく宵闇の中に響き、その音はけたたましい鋭さを伴ってノエルと父親の二人きりの自宅の前へと辿り着く。

 全速力で駆けてきたのだろう、突然急停止を命じられた特有の乱れた馬のいななきが響き、その声と音はそろそろ就寝しようかと考えていた二人の動きを停止させるだけの効果があった。

 何事かと父と二人互いに顔を見合わせた直後、かんぬきを下ろした扉の外側が荒々しく幾度も打たれて、その音に被さるように人の、まだ若い男の声が響いてくる。

 あまりのけたたましさと荒々しさに一瞬、物盗りか何かかと思ったが、

「誰か! 誰かいないか! 急患だ!!」

 切迫した声と言葉に、反射的にノエルは扉のかんぬきに飛びつくと、直後に外した。

 とたん力任せに大きく開かれた扉の向こうには静寂な夜に似つかわしくない、いくつものたいまつを掲げた男達の姿がこちらを圧倒する威圧感を伴って立ち並ぶ。

 一番手前に恐らく今まで扉を叩いていたのだろう若い黒衣に身を包んだ男が誰よりも強い存在感を示してノエルの瞳を射貫いた。

 その姿を目にした途端、感じたものは恐怖だった。

 畏怖、と言うべきだったかもしれない……それほどに目の前の男には、彼女の知らない何か強烈なものがあったのだ。

 無意識のうちに、一歩二歩と後ずさるこちらに構いもせずに、男はその口を開く。

「ここはグローヴァ医師の自宅か。彼はどこにいる」

 人にものを命じる事に慣れた人間の物言いだ。

 自分の言葉に従わぬ、あるいは答えない人間がいることなど考えもしないような傲慢さと背中合わせの強い口調はそれだけでノエルを怯えさせたが、彼女が何とか舌をもつれさせながらも目の前の男の言葉に答えようとした時、彼女よりも早くに背後から別の声が続く。

 この場において、他に返答する者など他にいない……父だ。

「私はここにおります」

 そう言って、一歩前へと進み出た父は、あろうことか突然膝を付くと男の目の前で深く頭を下げた。

 今まで見た事のない、優雅な仕草としきたりに法った礼は、普段の不器用な父の姿とは全く別物のように見えてノエルが驚きのあまり声も出せずにいると、父はなおも続けた。

「お久しぶりでございます、アルベーニ公、ジークベルト様」

 ジークベルト。それがこの男の名か。

 そしてその名を知っていると言うことは、彼と父とは顔見知りなのか。

 己の胸の内に込み上げた疑問を口にしたくとも、今、それを問う事が出来る雰囲気とはとても思えない。

 物言いたげに口を噤むノエルの目の前で、男は父の手を取ると立つように願った……そう、命じたのではなく願ったのだ。見るからに人に何かを命じる事に慣れている男が。

「このような夜更けに無礼を働いているのはこちらの方だ。本来ならばこちらの方こそが礼を尽くさなければならないところ、非礼を重ねるようで申し訳ないが、今はゆっくりと再会の挨拶を交わしている余裕がない。頼む、グローヴァ殿、助けて欲しい」

 父の様子にも驚いたが、その父に大して確かな敬意を持って彼の名を呼び、率直に救いを求める男の言葉にも驚いた。

 ノエルの知っている貴族は、先程彼が階間見せた傲慢さが物語るように上からものを言いつけて命じるものだ。

 助けてくれと頼んで来るような存在ではない……ずっと、そう思っていたのだけれど、どうやらそうした貴族ばかりではないらしい。

 自分は大して多くの貴族も知らないくせに、ごくごく一部の貴族を見ただけでそう言う者だと言う偏見を抱いていたようだ。

 驚きと戸惑いと動揺が抜けないノエルとは対照的に、父は冷静そのものである。

 目の前の自分よりも頭一つ分も背の高い男の、黒曜石のような深い瞳を真っ直ぐに受けても物怖じもせずに静かに答える。

「先程、急患と仰いましたな」

「そうだ。私の妹だ。城近くの湖に転げ落ちた。すぐに家の者が気付き引き上げたが、息をしていなかった。幸い呼吸はすぐに取り戻したが、それからずっと目を覚まさない」

 彼の妹が落ちたと言う湖にはノエルも心当たりがあった。

 彼の城のすぐ傍には大きな湖があって、澄んだ透明度の高い美しい湖だ。凪いだ水面に映り込み、浮かんで見える月が美しく神秘的に見える事から、地元の人間は月鏡の湖と呼んでいる。

 が、美しい見かけが浮世離れして感じられるのか、世をはかなむ人間が身を投げることが多く、二、三年に一度はそうした騒ぎが起こる。

 水位が深く、年間を通して低い水温により、助け出されても手当が悪ければ命を落とす人間も多い、地元では曰く付きの湖だった。

 いくら城のすぐそばとはいえ、蝶よ花よと大切に育てられ、供の者も多くいるはずの公爵家の姫が何故そんな湖に落ちたのか。

 ほんの一瞬だけノエルの頭の中にある邪推がよぎったが、今は青年の妹が湖に落ちたと言う理由を探るよりも他にすべき事がある。

「ノエル」

 父に声を掛けられる頃にはもうノエルは身を翻して、家の奥に向かって駆け出していた。

 幸いまだ寝間着には着替えていないから、己の身なりを整える必要はない。

 思い付く限りの医療道具と薬の類を詰め込み、ずしりと重くなった鞄のベルトを肩に背負うようにして再び玄関口へと戻れば、父は既に外に出て、見たこともないような立派な馬に跨っている。

 恐らく男たちが共に連れて来た馬だろう。急ぎゆえにあらかじめ、父の分の馬を用意していたらしい。

 だが、その用意している馬の中に自分の分はない。

 付いていくべきなのか見送るべきなのかを一瞬迷って父の顔を見つめれば、しっかりと頷き返された。ついてこい、という意味だ。

 すぐに、父の跨る馬の元へと向かおうとしたが、それより早くにノエルの傍らへ馬を寄せてきた者がいる。

 先程、父がジークベルトと呼んでいた青年だ。

 その男の跨る馬は、父の乗る馬よりもさらに大きく立派で、素人目にもずば抜けて質の良い駿馬だと判る。

 村の人間が馬車を引かせるような馬とは似ても似つかない。

 乗り手と同じ黒を纏った、筋肉の形に合わせて黒光りする馬の迫力が夜の闇と相まってノエルの身を竦ませた。

 が、青年は呑気にこちらの身体の強張りが解けるのを待ってはくれない。

「乗れ」

 多分、ノエルを連れて行くという父の意図を男も察したのだろう。彼の背後で供の男達が慌てたように、ならば自分達の馬にと動き出そうとするが、それを片手を上げることで制したのも、この青年だった。

「構わん、私の馬が一番早い」

 人二人を乗せての疾走はどうしても速度が落ちる。

 父の馬も、共の者の馬も立派で、ノエル一人を乗せたところでそれほど大きく遅れを取るようには思えなかったが、先を急ぐ道中ではその多少の遅れさえ気になるのだろう。

 それにノエルも、父の馬を扱う腕が、医療技術ほど優れているわけではないと知っている。

 夜間、それも全速力で走る馬では、操ると言うよりも振り落とされないようにしがみつくだけが精一杯のはずだ。

 気後れしないと言えば嘘になる。

 けれど今ここで自分がもたもたしている事が許されないと判っていたから、躊躇ったのはほんの二、三秒のことですぐにノエルは差し出された青年の手を掴んだ。

 直後これまで経験したこともないような強い力で馬の背へと引っ張り上げられ、青年の後ろの鞍へと腰を落ち着けさせる。

 馬が動き出したのはその直後だった。

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