第三章 白蝶 5
随分沈んだ表情をしていた。
天幕から出てきたノエルの顔を見て、ジークベルトが思った感想はこれだった。
事前にどうにか子どもの命が助かったと聞かされていなければ、やはり無理だったのかと思ったところだ。
いや、あの表情は沈んでいると言うよりも怯えていると言うべきなのだろうか。
だが、それにしても驚いた。
ノエルが薬草の知識を持っていることは、レミシアーナの一件で知っていたが、あれほどの医療技術を持っているとは。
あのような田舎の村で医師の助手をさせていることが勿体ないと感じるほどだ。
グローヴァが、ノエルに足りないのは経験だけだと言っていた言葉を思い出す。
あれは過大評価ではなく、事実だったのだと実感した。
あの子どもの命を救うことがどれほど難しいことなのか、戦場で多くの人々が傷つき、命を落としてきた姿を目にしているジークベルトは知っているつもりだ。
一目見て、これは無理だと思った。
だが、その自分が無理だと思った子どもを、ノエルは救ったのである。もはや奇跡としか言いようがない。
あれほどの技術を持つ医師が王都にどれだけ存在するだろう。王都で学べば良い、等と言ったけれど、もしかしたら学ぶ必要もないのかもしれないと思う。
だからこそ、余計に不思議に思う。
彼女が安堵や喜び、あるいは誇らしい表情をするならば判る。
なのにどうしてあれほど怯えた……まるで取り返しのつかない罪を犯してしまった罪人のような、泣き出しそうな表情をしていたのだろうかと。
そんな表情をされるとひどく扱いの難しい、繊細な細工物でも相手にしているかのような気分になる。
頑健な騎士達や、乱暴に扱ったところで壊れそうにない荒くれ者を相手にすることが多いジークベルトには、ノエルのような少年にどう接して良いのか判らないのだ。
そこまで考えて、緩く首を横に振った。
いや違う、ノエルは少年ではなく……
その時、小さなどよめきが起こった。
何事かと思考を中断して、声の聞こえた方へ視線を向ければレミシアーナが天幕から外へ出てきたところだった。
出てきたのは妹だけではない。側付の侍女、ヘレナともう一人、淡い薄紅色のローブを身に纏った、長い金髪の若い女性がいた。
だがその女性にジークベルトは心当たりがない。一体誰だと、注視したその先で彼女が振り向く。
顔かたちそのものよりも、どこか怯えと不安を含んだ紫水晶のような瞳を目にして、知らぬうち彼女の名を口にしていた。
「……おまえ、ノエルか」
信じられないと言わんばかりなジークベルトの声に、にわかに彼女が狼狽えたように身じろぐ。
困った様子で俯いた拍子に、色白の小さな顔の輪郭をなぞるように、長い艶やかな金色の髪が、華奢な肩を滑り落ちた。
その姿はどこからどう見ても、年頃の若く清楚な、美しい娘だ。
いつも長い髪を後ろで一括りにし、男物の衣装を身につけ、ちょこまかと動き回っていたあの少年のようなノエルとはまるで違う。
「あの……服を、汚してしまったので、レミシアーナ様が……」
どうやら、駄目にしてしまった服の代わりにレミシアーナから衣装を借りたと言うことらしい。
他にも何着か着替えを与えていたはずだが、彼女の隣でどこか誇らしげな顔をしている妹を見れば、きっとその着替え……男物の衣装を身につけることをレミシアーナが許さなかったのだろう。
何もおかしなことではない。
むしろノエルの性別を考えれば、この姿の方が正しい。
十代後半から二十代前半と言えば、花が匂い立つようにその花びらを開く、女性の人生の中でも最も美しいとされる時期だ。
常々レミシアーナがノエルの男装について疑問に思っていた事をジークベルトは知っている。きっとこの機会を幸いと、彼女に女性の衣装を着せたのだ。
なのに、それが判っていながらジークベルトは不覚にも、その後の言葉を口に出来なかった。
なんと言えばいいのか判らないと言うよりも、初めて見る彼女の姿にすっかりと頭の中が真っ白になってしまって、何一つ言葉が思い浮かばなかったのだ。
できたことは、目をまるく見開きながら彼女を凝視し……それから何とも言えない表情で自分の顎を撫でることだ。
まるで言葉を忘れたようにじっと見つめ続けるジークベルトの視線に、居心地悪そうに身を揺らしたのはノエルだった。
「……あの……やっぱり、もう一度、着替えてきます」
あまりにもジークベルトが驚いた表情をしているので、自分に不釣り合いな装いだと感じてしまったようだ。
逃げ出すようにくるりと身を翻そうとした彼女の腕を咄嗟に掴み引き止めたが、だからといって上手い言葉が出てくるわけではない。
「いや、すまない、そうじゃない。そうじゃなくて……」
そうではなくて、なんなのだ。
自分でも情けないくらい、言うべき事に詰まってしまうジークベルトの下に救世主が現れる。
「ジークは、君があんまり綺麗だから驚いて頭が真っ白になってしまったんだと思うよ。何せご婦人に不慣れな、純粋で純情な公爵様だからね」
……もっともその救世主は、同時に疫病神とも言えるだろうけれど。
「……キース」
純粋、純情。
その言葉だけを聞くならば悪い意味には聞こえないが、それを向けられているのが二十代半ばの男だとすれば、途端に嫌味に変わる。
じろりと物言いたげに睨んでも、陽気な幼馴染みはケロリとしたものだ。
「事実だろう? 二十三のこの年に至るまでまともに付き合える女性は、レミスの他はごく一部だけ! 王都の姫君方は国内外にその名を轟かせる勇ましき騎士殿の奥方候補に、列をなさん勢いだというのに、その当人は若い女性を目にすれば親睦を深めようとするどころか怖じ気付く始末だ」
「私は怖じ気付いているのではなく、敬意を払っているだけだ! 身内でもない若い女性に馴れ馴れしく振る舞えるわけがないだろう! 余計なことをぺらぺら喋るな!」
「だってさあ」
「キース!」
「お兄様が女性のお相手を不得手としていらっしゃるのは事実でしょう? この調子では一体我が公爵家は跡継ぎにいつ恵まれるのかと、皆心配しているのよ」
幼馴染みだけではなく、妹も少々手厳しい。
しかし事実なだけに反論もできず、ぐっと黙り込むより他になかった。
その間にもキースはにこにこと食えない笑みを浮かべて、ノエルの傍らへ歩み寄ると、恭しい仕草でその手を取った。
「美しいお嬢さん。とてもよくお似合いですよ。どうか普段からも、その花の様な美しさで俺達の目を楽しませていただけると光栄なのですが、いかがですか?」
「えっ、あのっ……」
芝居じみた台詞だけでなく、指先にまで軽く口付けられて、見る間にノエルの頬に朱が差した。
からかわれているだけだと頭では判っていても、慣れない経験に今度頭が真っ白になってしまったのは彼女の方らしい。
キースは騎士であるのと同時に、育ちの良さを感じさせる柔らかな物腰で、甘さと精悍さの両方を兼ね備えた端正な容姿の青年だ。
当然ご婦人方からも大層人気がある、王都でも色男と有名だ。
そんな青年にこんな扱いをされれば、大抵の若い女性は狼狽えるなり頬を染めるなりするのが当たり前で、ノエルの反応は何も間違えていない。
間違えていないのだが、何故かそれを直視してしまったジークベルトには面白くなかった。
むっと眉間に皺を寄せると、口を挟む。
「ふざけている暇があれば、さっさと食事を済ませろ。私達が済まさねば、他の者達がいつまで経っても空腹のままだ」
それは殆どこじつけのようなものだったが、上の者達が食事を済ませなければその下の騎士や使用人達が食事にありつけないのは事実だ。
来い、と視線だけでノエルを促せば、彼女はすぐに俯いていた顔を上げて「はい」とその後に続く。
連れ立って野営の中央へ向かう二人の背を、キースとレミシアーナがそれぞれに顔を見合わせ、やれやれと笑みを零した。