第三章 白蝶 4
「待て、ノエル。大事なことを言い忘れていた」
「は、はい?」
大事なこととはなんだ。
まさか自分の力のことに勘付かれてしまったのか。
思わず身構えてしまったノエルの頭の上に、ぽんと何かが下りてくる。
上から押さえられる格好で、俯くように頭を下げてしまったノエルは、先程よりも間近にジークベルトの身体があることに気付いた。
では、自分の頭の上に置かれたものは……
「良くやった。我が事のように、おまえを誇りに思うぞ」
二度、三度と頭を撫でられる。大きな手の平と、しっかり骨の通った五本の指は、彼のものだ。
曇りのない真っ直ぐな笑顔は、その言葉通り彼が自分を認めてくれた証のようで、一瞬言葉に詰まりながらも目を奪われてしまう。
この人は、なんて屈託のない笑顔で笑うのだろう。
とくりと鼓動が一つ鳴る……そして、じわじわと頬に熱が昇る。どうしてか真っ直ぐに彼の顔を見つめる事ができなくて、戸惑うように目を伏せてしまった。
「正直、おまえはまだまだグローヴァ殿には遠く及ばないのだろうと思っていたが、あれほどの傷を治療するとは大したものだ。お前が将来どんな医師になるのか楽しみだな」
「ありがとうございます……」
「折角王都へ行くんだ。どうだ、グローヴァ殿から習うだけでなく、そこで学んでみたらどうだ? 必要なら私が後見に立ってもいい」
それは、本来とても有り難い申し出なのは判る。通常、何の身分もない平民が、公爵本人から後見を買って出てもらえるなどあり得ないことだ。
けれど……
彼が手放しで褒めてくれるように、医療の技術だけであの子どもを救うことができればどれほど良かっただろう。
それに、自分には彼にそんな申し出をして貰える資格がない。
先程とは違う意味で、どくりと騒ぐ鼓動を宥めるように自分の胸元を押さえながら、躊躇いがちに口を開いた。
「……せっかくのお申し出ですが、私はたぶん、医師になることはできないと思います」
「何故だ。おまえほどの腕があれば、すぐにでもひとり立ちできるだろうに」
「ですが、私は……女ですから」
女であるから、医師になれないと言う決まりはない。ないが、やはり周囲は良くは思わないだろう。
女性であると言うそれだけで、未来の多くが定められてしまう。
女の役目は、早く家庭に入って子を産み育て家を支えること……つまり、どこまでいっても男性の所有物として、その庇護下で暮らすことを求められているから。
ジークベルトもそれは知らないはずはないのに、しかしこの時の彼の言葉はそんな世間の常識を覆すものだった。
「女だから、何だという。男であろうと女であろうと、優れた技術と知識を持ち、本人が望むのであれば叶えられぬことなどない」
「……」
「できないと考えていれば、本当にできない。できると思えば、一見不可能に思えることだとしても可能となる。私はそう信じている」
それは、滑稽なくらい真っ直ぐで、美しい理想の言葉だった。
確かに彼ならば望みは叶うだろう。それだけの力が彼にはあるから。
自分ならばどうだろう。出来ると言い切る事の出来る彼が、今はとても眩しい。
「おまえにだって、きっとできるはずだ。諦める前に精一杯足掻いてみたらどうだ? 先程も言ったが、おまえが医師として成功したいと願うなら私は最大限の協力をしてやろう」
その言葉に、何だか本当にできそうな気がしてくるから不思議だ。
きっとこの人ならば、どんな難しいことも叶えてしまうのだろう。そう思うと、自然と口元に笑みが浮かぶ。
「……ありがとうございます」
それは少し苦笑交じりの微笑だったけれど、そんなノエルに返すジークベルトの笑みはどこまでも真っ直ぐだ。
が、その直後彼は何かに気付いたようにハッと、ノエルの頭の上に乗せていた自分の手を引っ込めてしまった。
どうしたのだろうと疑問に思った時。
「すまん、年頃の娘にすることではなかったな」
少しばつの悪そうな様子から、遠慮なく頭を撫でる行為は、さすがに十八になる娘にすることではないと気付いたようだ。
何だか少し、残念な気もした。たとえ子ども扱いでも、彼に頭を撫でられるのは、決して嫌なことではなかったから。
ほんの少しだけ後ろ髪を引かれる思いでジークベルトと別れた後、教えて貰った天幕へと向かった。
そういえばレミシアーナを馬車に待たせて、それっきりだった。きっと心配させただろう。
「ノエルです。お邪魔してよろしいですか?」
案の定、声を掛けるとすぐに天幕の入り口が開かれ……直後、鋭い悲鳴が上がった。
なんだ、どうしたと周囲が目を向けてくる中、レミシアーナの手がノエルの腕を掴むと、ぐいっと中へ引っ張り込まれる。
ノエル自身、突然の悲鳴に驚いて、少し反応が遅れた。気付けばひどく切羽詰まった表情の黒髪の美少女が自分の顔を見つめていた。
「なんなの、おまえ! その格好、崖下に転落した人を治療していると聞いたけど、おまえも怪我をしているの!?」
「えっ、あっ」
しまった、とようやくこの時気付いた。治療の後だったし、ジークベルトもひどい格好だ、とは言ったけれどそれ以上の大きな反応はなかったので、すっかり気にするのを忘れていたけれど、今の自分の姿は服の至る所が血で汚れたままだ。
だからこそ着替えをしなくてはと思ったのだが、この姿を見てレミシアーナやヘレナがどう思うのか、考えていなかった。
悲鳴を聞きつけて、何事かと様子を騎士達が様子を窺いに来る始末だ。
「服を脱ぎなさい、すぐに! どこをどう怪我をしているの!?」
レミシアーナはこちらが申し訳なくなるくらい、心配そうに眉根を寄せている。
自分のような身分の人間がどんな怪我をしようと、彼女が気にするようなことはないはずなのに、そんなことは関係なしに案じてくれているのが判って、少しだけ塞いでいた気持ちが和らぐのを感じた。
そう言えばジークベルトも、転落した夫婦を何の躊躇いもなく当たり前のように救助していた。それどころか自ら、子どもを助ける際には手を貸してもくれたのだ。
この兄妹は、自分が身分の高い人に抱いていたイメージを、良い意味で覆してくれる。温かな優しい人の心に触れたような気がして、自然と口元が綻んでしまった。
「……ちょっと、人が心配しているのに、何を笑っているの!」
「い、いえ、申し訳ありません。レミシアーナ様は本当にお優しいですね」
「……何を言っているの、おまえ」
しまった、レミシアーナの機嫌を損ねてしまったか。
先程よりも低く聞こえた彼女の声にヒヤリとするも、こちらを睨む彼女の表情は怒っていると言うより拗ねているように見える。
彼女には、自分が答えをはぐらかそうとしているように聞こえてしまったようだった。
「お見苦しい姿で申し訳ありません。これは私のものではなく、救助したお子さんのものです」
「子ども? じゃあ、おまえは怪我をしていないのね?」
「はい」
きっぱりと答えたことで、ようやく彼女はホッと息をついた。しかしその直後、すぐに表情を曇らせてしまう。
「……でも、その子はこんなにたくさん血を流したのね。……助かるの?」
「出来る限りのことはしました。……ただ、傷が深く、出血も多いので、しばらくは慎重に様子を見ていく必要があります」
「そう。……とにかくおまえは早く着替えなさい。ヘレナ、着替えを出してあげて。ノエル、おまえはそんな格好であちこち触らないでよ。私、自分の天幕が血で汚れるのはごめんだわ」
服の血はもうすっかり乾いているのだが、そう言われてしまうと動けない。
その場で立ち尽くすノエルへと、ヘレナが気の毒そうに微笑みながらも、荷物から着替えを取り出し、そっと差し出してくれるのだった。