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第三章 白蝶 2

「キース? どうしたの? さっきの音は何?」

「うん、実はちょっとこの先で困った事になっていてね。……ノエル、すまないけど馬車を降りて、ついてきてくれるかい?」

「はい?」

 困った事とはなんだろう?

「キース、ノエル」

「レミスとヘレナは馬車の中で待っていて。……心配しなくても、後でちゃんと報告にくるよ」

 ちらと後ろを振り返れば、レミシアーナと彼女に寄り添うヘレナが、少し心配そうな顔をしている。

 そんな彼女達の視線を背に受けながら、キースに連れられて馬車から降りたノエルは、すぐに異変に気付いた。

 これから先に進もうとする道の半ばから、急に酷く土が抉れて真新しい轍になっている部分がある。恐らく他の通行者による、馬車の車輪の跡だろう。

 その跡は激しく蛇行しながら、そのまま道を外れた脇の崖に向かって続いていたのだ。

 そして跡が途切れている崖の周辺で、随行してきている騎士達が馬から下り、崖下に向かって何か指示を出したり、ロープを下ろしたりしている。

 その騎士達の中に、ジークベルトの姿もあった。

「……ジークベルト様」

 呼べば、すぐに彼がこちらを振り返る。

「ああ、来たか、ノエル。どうやらお前の出番になりそうだぞ。……だが……」

 自分の出番とはどういうことなのか。

 そして口ごもるように黙り込んだ理由は何なのか。

 想像しようとしてみても、悪い予感しかしない。

 ジークベルトに促されて、恐る恐る崖下を覗き込んだノエルは、そこで自分の嫌な予感が的中していることを知る。

 恐らくあの真新しい轍を作った物だろう。年季の入った古びた荷馬車が崖下に転落していたのだ。

 その荷馬車の前方には繋がれたままの馬が二頭、重なり合うように倒れている。既に事切れているのか、大きな胴体を空の下に晒しながら、ぴくりとも動かない。

 しかし荷馬車そのものは、崖下に生い茂っている草木の枝がクッション代わりになったのか、それほど大きく破損しているようには見えなかった。

 その傍らで、騎士達に支えられている二人の男女は、この荷馬車の持ち主だろう。傷を負っているようだが、この崖から転落したにしては軽傷に見える。

 良かったと、一瞬ホッとしたその直後。

 一人の騎士が上げた声が聞こえた。はっと彼の指し示す場所に目を向ければ、荷馬車から少し離れたところに、もう一人蹲っている姿が見える。

 折れた枝に隠されてはっきりとその姿は見えないが、小さな子どものように思えた。恐らく、四、五歳程度の幼子だ。

 だが様子がおかしい。

「……待って、その子を動かさないで下さい!」

 騎士達が数人、そちらへ向かって歩み寄る……気がつけば彼らが伸ばそうとした手を制止するように声を上げ、下ろされたロープを自ら掴み、崖下へ降りようとしていた。

 無事な男女の姿に一瞬ホッとしたのも束の間、再び嫌な予感が胸の内を満たし始める。どきんどきんと心臓の鼓動が壊れた鐘のように打ち鳴らされ、ロープを掴む手の平が汗ばんでいった。

 ノエルが降りてくる姿に、一番近い場所にいた騎士の一人が手を差し出してくれる。

 その手を借り、他の騎士達にも支えられながら、どうにか子どもの傍らにまで近づいたノエルはそこで息を飲んだ。

 突き出た木の枝に覆い被さるように俯せに倒れた子どもの身体の下には、夥しい血の色が見えたから。

 そして……枝に隠されて判りづらいが……その身体で下敷きにした木の枝の一本が、幼い子どもの腹を貫き、背から先が飛び出ている。

 同じように子どもの状況に気付いた他の騎士達も息を飲む。

 その光景を目撃した誰もが思っただろう。

 これは、助からない、と。

「子ども……! セトは、セトは無事ですか……!?」

 背後から傷のせいで一人では満足に動けない男女の、女性の方……恐らく母親だろう……が、悲痛な声を上げる。

 彼女の問いに答えられないこちらの様子に、母親も何か感じるものがあったらしい。

「お願いします、子どもを助けて! 助けて下さい、お願い……!!」

 耳に痛いほど母親の声を聞きながら、少しの間ノエルは動けなかった。

 一瞬どうすれば良いのか、あまりにも無残な姿に思考が纏まらなかったのだ。

 今までどんな酷い怪我をした患者達が運び込まれてきても、ノエルは父の指示に従えば良かった。

 患者の身内に対しての説明や報告、そして彼らからの嘆きや怒りの言葉を一身に受け止めるのはいつも父で、ノエルはその現実にいつも胸を痛めながらも父の陰に隠れるように、息を潜めていた。

 でも今、この場に父はいない。自分が判断しなくてはならないのだ。

「お願い、助けて……助けて、お願い、お願いします……!!」

 だけど泣き叫ぶ母親の声にますます身体が強ばってしまう。

『無理よ。これじゃあ、普通は助からない』

 頭に響いた声が、珍しく今のノエルの思考と一致する。自分以外の誰が見たって、きっと同じ事を言う……そう心の天秤が諦めの方へ大きく傾いた時。

「えっ……」

 ぴくりと、子どもの小さな指が動いた……ように見えた。見間違いかと思ったが、よくよく見ればもう一度、ぴくぴくと微かに動いている。

 意識はない様子だが、生きている。まだ、命がある。

 ほんの僅かな動きなのに、子どもはまだ死にたくないと、生きたいと訴えているようで、その姿にあと一歩踏み込めなかった足が前へ進んだ。足場の悪さでよろめきながらも子どもの身体に触れれば、脈は酷く弱いが確かにまだ心臓が動いている。

「周りの枝を払って下さい。振動が伝わらないように、ゆっくりお願いします!」

 すぐに騎士達が手分けをして、周囲の枝を鉈で落とした。

 それは子どもの身体を貫いている枝も同じだ。丁寧に、傷が広がらないよう慎重に枝を木から切り離す事で、ようやく子どもをその枝から下ろすことができる。

 しかし枝はまだ腹を貫いたまま、出血も止まっていない。

 たとえ今生きていても、そう遠くない未来……例えば五分とか、十分とか、その程度の時間でもう、この小さな命が消えてしまうだろう事は誰の目にも明らかだ。

 痛ましそうに騎士達が目を伏せる。

 もはや泣き崩れる母親の叫ぶ声は、慟哭に近い。

 どうすればいい。どうすれば?

 こんな状況で何かができる医師などいないだろう。それはノエルでも変わらない、ただ、せめて静かな場所へ運んでやって、両親と最後の別れをさせてやるくらいのことしか。

 でも……だけど……

『……駄目よ。誰にも、知られては駄目』

 繰り返し、自分に言い聞かせていたノエル自身の母の声が頭の中に蘇る。

『力を使うつもり? そうね折角ある力なのだもの、使えば良いわ。子どもを見捨てる覚悟のない、臆病者のノエル』

 続いてくすくすと頭の中で笑う声がした。

 覚悟がない。臆病者。その言葉は普段であれば容赦なくノエルの心を抉っただろう。しかし今はその声を覆い隠すように、子どもの母親の嘆きが重なる。母親の声と……再び、微かに動いた子どもの小さな指の動きに、一度だけきつく目を閉じると、すぐに開き、顔を上げた。

「どなたかこの子の身体を支えて下さいますか!」

 声を張りながら、自らの左手を子どもの腹の傷に重ねた。そこに突き刺さる太い木の枝を確かめながら指先でゆっくりと傷の上を押さえる。

 頭の中でくすくすと笑う声は響き続ける。まるで自分の行為を嘲笑うような声だった。

 やめて、今はこれ以上、何も言わないで。自分の邪魔をしないで。

 心の中で懇願するように奥歯を噛み締めたとき。

「私が支えよう」

 振り返れば、いつの間にか後ろにジークベルトがいた。すっかり子どもの方に気を取られて気付かなかったが、彼は崖を降り始めたノエルのすぐ後に続いて、共に降りてきていたのだ。

 そう言えば足元をよろめかせた時も、枝を払う時も、手を貸してくれていたのはこの人だった。

「どうすれば良い。指示をくれ」

 まさか公爵その人が、このような救助作業に手を貸してくれるとは思っていなかった。彼のような身分の人は、崖の上で事が終わるまで待っているものだとばかり。

 ほんの一瞬戸惑って彼の顔をじっと見つめるも、見つめ返してくる彼の瞳には何の躊躇いもない。子どもを抱えることで自分の身も血で汚れることも厭わず、真実ノエルの指示を待っている彼の姿に、きゅっと唇を噛み締めてから、言葉を紡いだ。

「……枝を抜きます。この子の身体が動かないよう、しっかり抱えていてください」

「枝を抜く? 抜かない方が良いのではないか」

 確かにジークベルトの言うとおり、本来であれば枝を抜けば更に出血が酷くなる。抜く行為で身体の中の他の血管も傷つけ、傷口を広げる可能性もある。

 だが枝を身体に刺したまま、この身体を少しも傷つける事なく崖上に引き上げるのは不可能だ。

 それにそのような事をしている間に子どもの命は途絶えてしまうだろう。

「今ここで抜いておかなくては、死んでしまいます」

「……おまえ、この子どもが助かると考えているのか?」

「…………判りません。でも……」

 枝を抜かなくては傷を塞ぐことはできない。言葉もなく目を伏せたノエルに、彼が僅かに息を飲む気配が伝わってきた。

 それは無理だと言う諦めのものか、それとも他の理由か……どちらにしても確かめている余裕は今はない。

 腰の柔らかな布でできたサッシュベルトを解くと、それを包帯代わりに子どもの腹に巻き付ける。突き刺さっている枝のその部分だけを残し、突き出た部分は切り落としてから、ゆっくりと枝に手を掛けた……傷口に、左手を添えたまま。

 その瞬間、手元からふわりと舞い上がる何かがあった。

 蝶だ。

 小さな蝶が数匹、まるでノエルの指先から生まれ出るかのようにふわふわと宙へ舞い上がる。真っ白なその羽根が羽ばたくたび、鱗粉のように周囲にまき散らされるのは細かな光の粒だった。

 美しい蝶だ。

 でもその姿を目にして、ギクリと心が強ばった。

 どれほど美しくてもその蝶は色こそ違えど、レミシアーナの枕元で目撃した、あの不思議な黒い蝶の姿に良く似ていたから。

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