第三章 白蝶 1
春に芽吹いた若葉が縮こまっていた腕を伸ばすように、ぐんと背丈を伸ばす初夏。
レミシアーナとノエルを乗せた馬車は、アルベーニ公爵家の別荘から王都へ向けて発った。
王都への帰還を決めてから、四日後の出来事である。
荷物も人もそれぞれ手分けして屋敷から運び出され、皆で連なるように王都への道を進む。
とは言え、特別期限が切られた急ぐ旅ではない。
ようやく回復しつつあるレミシアーナの体調や、旅慣れないノエルへの配慮から、馬車の速度は比較的ゆっくりとしたものだ。
あまりのんびり進んでいたら、要所要所で見張りの目を光らせる盗賊達の餌食になりかねないのだが、今回に限って言えばその心配は少ないだろう。
何せ周囲をぐるりと一目で騎士と判る人々が取り囲んでいる。
迂闊に手を出そうものならば容赦なく返り討ちに遭うだろうし、仮に目的を遂げることができたとしても犠牲になるものが大きすぎる。
よほどの命知らずでない限りは、近づこうとすら思わないだろう。
守られている側の立場であるノエルですら、馬車の窓から見える外の物々しさにギクリと身体が強ばるくらいだ。
そう言えば彼らがあの村へやってきた時、村の少年ディーンが騎士達が来たと大騒ぎしていたことを思い出した。
あの時は正直興奮した少年の様子に、大げさだなと思ったくらいだったが……確かにこの光景を見れば、ディーンの言葉の意味が判る。
目にしたら、言いたくなるだろう。ああ、騎士だ、と。
王都まではゆっくり進んで、馬車で五日の行程である。こうして村の外に出るのは何年ぶりのことだろうか。
「ノエルは王都へ来たことはある?」
整然と隊を作って先を進む騎士達の姿と、流れゆく景色を見つめながら考え事をしていると、不意にそんなレミシアーナの問いが耳に届いた。
彼女の、兄に良く似た色の黒い大きな瞳が、真っ直ぐにこちらを見つめている。
「……はい、以前、王都で暮らしていたことがあります」
「そうだったの?」
「でも私が小さな頃の話ですし、あれからきっと、随分変わったのでしょうね」
今の村へ移住してからずっと王都へは行っていない。既に記憶も薄れていて、当時の記憶を思い出そうとしてもあやふやな部分も多かった。
それでもはっきりと覚えているのは、今は亡き母の事だ。
優しい母だった。自分を深く愛してくれた……それは間違いない。
薬草の知識に長けた母は幼い頃からその知識をノエルへ伝え、様々な事を教えてくれた。
母の作る薬はとても良く効いた。
まるで魔法のようだと感じたことを覚えている。
でも……それ以上の事を思い出そうとすると、胸の内を苦しいような切ないような妙な感覚がする。それを堪えるために眉根を絞った時。
「……ノエルは、怒っている?」
唐突に聞こえたレミシアーナの問う声に、ぎょっとした。
怒る?
自分が?
なぜ?
「いいえ。……どうしてですか?」
逆に問い返せば視線の先で、小さく肩を竦めながら拗ねたように、つんと顔を背けるレミシアーナがいた。
とはいえそのポーズは多分にフリが入っていると判る。拗ねた素振りをしながらも、実のところは自分のばつの悪さを誤魔化そうとしているのだ。
一見高飛車な態度にも見えるけれど、本来彼女が素直な少女だと知っているノエルには可愛らしいと感じる印象の方が強かった。
「だって……私が、強引に王都へ付いてきてくれるように、頼んだから……」
どうやらつい先程の眉を顰めた仕草が、彼女には自分が怒っているせいだと感じさせてしまったようだ。
そう感じたのも、多分に無理強いをしてしまったという後ろめたさがあるからだろう。
あの後、ジークベルトに馬に乗せて貰って、共に父の元へ戻ったノエルは、王都への同行を頼まれていることを報告し、どうすれば良いのか父に相談した。
ただでさえ一ヶ月近くも父の元を離れている。
この上王都にまで付いて行ってしまっては、一体いつ戻れるか判らない。
その間父を一人にすることも心配だし、診療所の事も心配だ。
だけど同じくらいにレミシアーナの事も心配なのだと。
自分ではどう判断したら良いのか判らず、迷うノエルに父は言った。
「おまえの思うようにしなさい」
と。
「私や診療所の事は心配しなくて良い。どのみち、おまえが嫁ぐようなことがあれば、一人で切り盛りしなくてはならないのだからね。少し早い予行練習だと思うことにするよ。アルベーニ卿であれば、おまえをお任せしても心配ないだろう」
嫁ぐ事などまだまだ考えていないし、そんな時が本当にくるのかどうかも判らない。
迷って、結局ノエルが決めたのはレミシアーナと共に王都へ行くことだ。そう決心した一番の理由はやはり父の、
「彼女はお前の患者だよ」
と告げたその一言だった。
レミシアーナはまだ自分を必要としてくれている。
彼女ほどの身分であれば、他にもっと経験豊かな優れた知識を持つ医師を側に置く事もできるはずなのに、ノエルに側にいて欲しいと言ってくれる。
もちろんいつまでも彼女の側にいられるわけではないし、自分にどれほどの事が出来るかも判らない。
いつかは手を離さなくてはならないのだけれど……とにかく、この際自分が納得できるまで、やってみようとそう思った。
それに断って父の元へ残ったところで、結局気になって仕方ないはずなのだ。
行くと決めたからには、いつまでも困惑してはいられない。自分に出来ることを、精一杯するだけだ。
『本当にいいの? 面倒な事になるのは判りきっているのに』
そう、いつもの声が頭の中でからかうように響いたけれど、あえて聞こえなかったフリをした。どちらにせよ、もう決めたことだ。
「最終的に、ご一緒すると決めたのは私自身ですから。それよりも色々と良くして頂いて、お世話になるばかりで、そちらの方が申し訳ないです」
「何を言っているの、私がおまえに一緒に来てくれるよう頼んだのよ。おまえはもっと堂々としていていいのに、おかしな子ね」
ノエルが怒っていないと判ってホッとしたのだろう。まるでレミシアーナの方が五歳も十歳も年上のような大人ぶったものの言い方をする。
それが小さな子どもが無理に背伸びしている姿にそっくりに見えて、ついノエルが笑ってしまうと、何がおかしいの、と少し拗ねられてしまった。
その時だ。自分達が向かう道の先から、突然地響きのような、何かが崩れ落ちるような耳を塞ぐほど大きな音が車輪の音に混ざって聞こえて来た。
「……今の音は何?」
怪訝そうにレミシアーナが眉を顰めるも、当然同じ馬車に乗っているノエルやヘレナが答えられるわけもなく、ただ首を傾げるばかりだ。
「落石でもあったのでしょうか」
馬車の窓から外を覗いてみても、様子は判らなかった。
しかし、それから更に少し進んだ場所で、不意に馬車が動きを止めた。
外が騒がしい。明らかに何か問題が起こっていると判る雰囲気だ。
少し待てばまた動き出すだろうとじっとしていたが、その予想に反して馬車はなかなか動かない。
「どうしたのかしら」
「私が様子を窺って参ります」
レミシアーナの隣に座っていたヘレナが、外に確認に行こうと腰を上げた時、彼女が内から鍵を外すよりも先に、外から扉が開かれる方が早い。
その向こうから顔を出したのはキースだった。