第一章 黒衣の騎士 1
村外れの領主の城に、何年かぶりにその持ち主が訪れたと聞いたのは、ようやく冬が終わり、春の気配が漂い始めた日のことだった。
「でっかい黒い馬車と馬でさ、お供の人が何人もついてて。で、ついた早々に村長が慌ててご機嫌伺いに駆け込んで行ったらしいぜ!」
大きな瞳を更に大きく見開いて、好奇心旺盛な眼差しで告げる、顔なじみの少年にノエルは後ろで緩く一つに括った金の髪を揺らしながら、やや首を傾けた。
見た目少年に見えるが、繊細な顔立ちと華奢な体つきを見ると少女にも見える、不思議な中性感を持つノエルは、先ほどからずっと、ごりごりと薬草をすりつぶすために動かし続けている両腕を止め、苦笑とも微笑ともつかない笑みを浮かべてみせる。
とたん、幼い仕草で頬を膨らませるのは、先程弾んだ声を上げた少年の方だ。
歳の頃はノエルより四つ年下の、十四歳。
もうこのあたりの村では子ども扱いよりも大人扱いをされることが多くなってくる年頃だが、仕草が活発すぎて、この少年はまだまだ年頃より幼く見える。
「なんだよ、その顔。ノエル、信じてないだろ、俺のいうこと」
「そんなことない、疑っているわけじゃないよ。ただ、随分熱心に言うなって思って」
この片田舎の村に身分の高い人々が訪れることは滅多にないものの、村よりも更に北へ上がれば、質素ながらも領主の城がある。
この辺り一帯を治める領主にとってはいくつかある内の一つだろうが、ノエルには充分大きいと思える堅牢な石造りの城だ。そこに人が来ても、何の不思議もない。
その領主の名は……
「アルベーニ公爵だね」
「父様」
突然会話に加わった第三者の声に、ノエルが振り返る。父と呼ばれた老人は、そんな子と、少年の様子に穏やかに笑い、続けた。
「アルベーニ公爵家は代々騎士の家系だし、その嫡男は好んで黒い衣装をまとうことが多いから、都では黒騎士と呼ばれている。ディーンが見たのは多分、その公爵家の人間で間違いないと思うよ」
「ほら、やっぱり! すっげー!」
公爵家といえば、王族に連なる血筋を持つ貴族中の貴族だ。その程度のことはノエルでも知っている。
もちろんだからと言ってその身分の高さが人間性の高さに比例しているわけではないが、確実に権力の高さには比例しているだろう。
庶民から見れば、貴族というだけでもう、雲の上の人だ。
「村長が大慌てでご機嫌伺いに行くのも頷ける」
領主直々の来訪となれば、それは確かに珍しいとノエルにも思えた。
彼女の記憶にある限り、こんな辺境の村外れにまで領主がやってくることなど滅多にない。せいぜいが領主の名代を名乗る使者が視察に赴いてくる事があるくらいで、領主本人の姿など見たこともない。
しかも二年前にアルベーニ公爵家は世代交代をしていると聞いたことがある。前公爵夫妻が不慮の事故で亡くなり、その後を嫡男が継いだわけだが………そうなると余計にノエルの記憶には存在しなかった。
「そんな貴族様がどうしてこんな田舎に何の用だろうなぁ。ひょっとして何か事件でも起こったとか。それとも近く、この辺りで戦いが起こるとか……?」
「それはちょっと笑えない推測だね。だけど今、ディーンが気にしなくちゃならないのは、時間じゃないかな? おばさんから何かお遣い、頼まれていたんじゃなかった?」
大丈夫?
またおばさんに叱られてしまうよ。
言外に込めたノエルの問いに、少年は今更思い出したとばかりにさっと顔色を変える。
どうやらすっかり忘れていたようだ……時刻はそろそろ夕方になる、子どもも羊も家に帰る時間は近い。
「そうだった、やべ、忘れてた!! じゃあ、ノエル、先生、また明日!」
やってきた時と同じように去るときも慌しく駆け去っていく少年の後姿を見送って、ノエルは小さく口元に苦笑を浮かべた。
良く言えば平和、悪く言えば退屈。
そんな村から生まれたときから一歩も外に出たことのない少年にとっては、小さな日常の変化はそれだけで大事件なのだろう。
好奇心旺盛な少年にはこの村は世界が小さすぎるかもしれない……日頃から、大人になったら村を出ると豪語しているだけあって、ディーンの好奇心はとても強い。
けれどノエルにはそこまで、ディーンの言う貴族の来訪、という小さな事件に興味を持つことは出来なかった。
さしあたってディーンが自分の仕事を思い出したように、ノエルが今しなくてはならないことは作業が途中になっている、薬草を粉末状に潰す事。そして夕飯の支度だ。
医師を営む父親の手伝いをし、後を継ぐ為の医学の勉強の傍ら、家の中の家事を行うことがノエルの仕事である。
母親はいない………今から七年前、父にノエルを預けて死んでしまった。
ノエルと同じ金の髪と薄いアメジストの瞳を持つ、子ども心に見ても美しい人だった。
母が死んで以降は、医師としては優れた腕を持っているけれどその他の事にはとことん不器用な父との、二人きりの生活が続いている。
多分、これからもそう言う毎日が続くのだろう、そしてその事に不満はない。
不器用ではあっても父が自分と言う子を心から慈しんで愛してくれていることは日頃から強く感じ取る事が出来るし、医学を学び新しい知識を手に入れることも楽しい。
近隣の人々との付き合いも良好で、このままこの村に骨を埋め暮らしていくことこそが一番の幸せだと思っている。
父親としては、すでに十八歳と言う年頃の娘に、娘らしいことの一つもさせてやれていない事を嘆いているようだがノエル自身は不都合を感じたことはない。
近所の人の好い人々も、もう年頃なのだからお嫁に行く事を考えなくては、なんて言っても来るけれどそれも考えていない。
大体、自分はあまり娘らしくも見えないだろうと自覚している。初対面の人間が決まってノエルを見て、少女なのか少年なのか迷うのは、父親の教育がどうこうというよりも、彼女自身にこそ責任が大きいだろう。
洗いざらしの、男性が身に纏う毛織りのチュニックにホーズ。
長い金髪は後ろで一つにくくり、化粧気の一つもない。
若い娘がこぞって身につけたがるアクセサリーの一つも身につけず、強いて言えば髪を括る細かな刺繍を施した、深い碧色のリボンだけが唯一の装飾だろうか。
娘らしい服を持っていないわけではないのに、父の仕事の手伝いをしたり、家の仕事をするにはこちらの方がいいからと男物の服ばかりを身につけている。
目ざとい者ならばその顔立ちや、ちょっとした仕草などから少女だと推察することは出来るけれど、普通は少し細身の少年なのかとも思われがちで、またノエル自らも自分がどちらの性別かなどいちいち告げないせいもあって、彼女の事をよく知らない人間は未だに少年だと思っている者さえいるくらいなのだ。
そんな娘の様子に時折父は物言いたげな表情をしたり、実際にそれらしい事を言ったりもするけれど、今の所ノエルは自分のこうした生活を改めるつもりはない。
今の生活が好きだと思うから。
結婚したいとも思わない。
結婚などしたら、女性が自ら外で働くなどと言う風習の薄い今の世の中、医学を学ぶことも出来なくなるだろう。
望むことはこのまま父親と共に、小さな開業医として家を盛りたて、静かに暮らして行くことだけなのだ。
『ウソツキ』
その瞬間、不意に頭の中に響いた声に、ハッと顔を上げる。
周囲を見回しても、その言葉を口にした誰かを見つける事が出来ない。
それもそうだ、今の声は他の誰かが発したものではなく、自分自身にしか聞こえない声なのだから。
「………嘘なんかじゃない」
呻くように低い声を絞り出して、唇を閉ざし歯を噛み締めた。そして頭の中で繰り返される声を振り払うように、少し乱暴に頭を振る。
自分で意図せず、思いも掛けない声が聞こえてしまう……度々、こんなことが起こる。
まるで自分の頭の中にもう一人別の人間がいるような感覚だ。
自分は確かにこう考えているのに、もう一人の自分の中の別の人間がそれは違うと否定する。
逆に自分はこれではいけないと考えているのに、もう一人の人間はそれで正しいのだと肯定する。
その度に決まって胸の内側をぐるぐるとかき混ぜるような奇妙な感覚と、落ち着かない気分にさせられる。
聞こえる声が囁く言葉は些細な内容の場合が多い。
先ほどのように自分の望む幸せだと思う事を否定することもあれば、他の事もある。
夕食の献立を考えている時に、
『それは嫌』
と異を唱える程度ならばまだ可愛い。ノエルを最も動揺させるのは、そして自分の中のもう一人の人間の存在を考えて恐ろしくなるのは、その言葉に明らかな悪意を感じ取った瞬間だ。
例えば父の元へ、馬車の事故で重傷を負った男が運び込まれてくる。
ノエルも必死に父の治療を手伝い、男は何とか一命を取り留める事が出来たけれど多分、自分の力では今後二度と歩くことは出来なくなるだろう……妻も子どももある男だ、命は助かったとしても明るい未来は難しいかもしれない。
そうした男の事を痛ましく思いながらも、なんとか立ち直ってくれればと心から思うノエルの気持ちと反して、
『死んじゃえば良かったのに』
そんな言葉が飛び出たり。
また、幼い子どもを病で失って嘆いている母親の姿に胸が痛むのに、別の人間は、
『これで看病から解放されて楽になれるわね』
と、笑ってさえいたりするのだ。
瞬間、自分の口を両手で押さえ、その度に絶句してしまう。ぞっとする感情が背筋を走り、冷たい汗が滲み出て全身を雁字搦めにするかのようだ。
自分の頭の中でのみ響く声だから、まだ自分だけの胸に秘めておけるけれど、もしこうした言葉を他の人間がいる場所で口にする様になったらどうなるだろう。
ノエル自身はそんなこと考えてもいないのに、唇が勝手に動き、勝手に毒を吐き出してしまったら。
これは、何かの病気なのだろうか?
精神的な病はまだその多くが謎に包まれたままだけれど、心神喪失的な状態になると自分とは違う人格を生み出したり、いくつもの人格に分かれたりする事があると聞く。もしかしたら、自分もそれなのだろうか。
父親に相談しようかと、何度も考えた。
けれど、結局今に至るまで相談できず、自分ひとりで抱え込んでいるのは恐かったからだ。
二重人格や、多重人格と言うのならまだ治療することは出来るかもしれない。
けれど、ぼんやりと思う……多分そうではない。
思うに、自分の中の別の人間は、ノエルの中の心の闇の部分を司るもう一人の自分なのではないだろうか。
誰にでも心には天使と悪魔が住んでいると聞く、もし本当にそうなら自分はもう一人の自分と生涯付き合っていかなくてはならない。
もっと心を強く持って、いつも正しく生きていかなくては。
そうすればきっと…………きっと、どうなるというのだろう?
努力すればするほどに、もう一人の自分がクスクスと笑う声が聞こえる気がする。
それに自分が抱えている秘密は、これ一つだけではないのだ。
頭の中に、今は亡き母と交わした約束が蘇る。
――決して知られては駄目。この秘密は、死ぬまで守り抜きなさい。
無言で己の左手の平を見つめ……何かを握りつぶすように、ぎゅっと拳を作ると、頭を振ってどうにか声を振り切った。
誰にも打ち明けることのできない秘密を己の内側に隠したまま、ただひたすらに今の生活が続くことを願うのだった。