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モノクロの宇宙

作者: 夏野ほむわ

 僕の左手が、懐かしい温もりを持った誰かの右手と繋がれている。辺りは夜明け前のまだ眠っていたいような暗闇に包まれていて、甘く冷たい匂いを運ぶ少し強い風が、闇の中に果てなく広がる草原を撫でる。さわさわと音を立てる草原の上には地平線が横たわり、秘密を守るために固く閉じた口のように真っ直ぐで動かない。

 一際強い一陣の風が吹くと、地平線からは、別の世界から訪れたのではないかと思うほど真っ白な太陽が顔を出す。森を吸い込んだようなエメラルド色の星空と、闇の中の草原を隔てる地平線は、太陽の眩しさに白く縁取られていく。

 ふと左側に目をやると、背中まで長く伸びた艶やかな黒髪を風になびかせる女性が、太陽のある方をじっと見つめている。闇に包まれていた彼女のシルエットは昇り行く太陽に照らされ、徐々に色彩を手に入れる。

 繋がれた彼女の右手と僕の左手が、海を凝縮したようなサファイア色に輝いて熱を持ち出す。すると、森を吸い込んだようなエメラルド色の星空が、まるでパズルのピースが一つずつ外れていくかのように崩れ始める。そのピースは地平線に食べられるように消え、森を吸い込んだようなエメラルド色の星空にはぽっかりと歪な形の穴が開く。その穴の先には、底知れない漆黒が広がっている。

 次々に崩れていく星空の下で、僕は彼女の横顔を必死に目に焼き付けようとする。しかし、涙で滲んだ視界は彼女の輪郭を明確に捉えることができない。今の僕には、彼女と強く手を繋いでいることしか許されていない。

 彼女の頬に一筋の光の流れが見えると同時に、世界は太陽の真っ白な光に包まれる。次の瞬間、森を吸い込んだようなエメラルド色の星空や草原、地平線といったこの世界を形作るもの全てが次々に崩れ、僕は意識を失った。


 地鳴りのような轟音を立てて全てが崩れた世界は、どこまでも虚無が広がる真っ黒な世界に回帰した。僅かな光の存在も許されず、心の形さえも見失ってしまうほどの真っ黒な世界だ。

 その百万年後、何もなかった真っ黒な世界に三本のロウソクが灯された。カウントダウンが始まるのだ。


 何か声が聞こえたような気がして、僕はゆっくりと目を覚ます。周囲は真っ白で何もない。床も天井も区別がつかず、その白がどこまで続いているのかわからない。あるのは自分の体だけで、そこにいると気が狂ってしまうのではないかと思うほど、世界は限りなく白かった。何らかの因果によって僕は心を持つことを許されておらず、この真っ白な世界を力なく漂っていることしかできない。

 すると突然、目の前に回転するグレーの輪が浮かび上がる。恐らく、この真っ白な世界が初めて手に入れた色彩だろう。そのまま二十秒ほど回転し続けたグレーの輪の下に、角張ったデジタル文字が一文字ずつ表示されていく。真っ白な世界に不気味に浮かんだ『宇宙再構成中』という文字と回転するグレーの輪を交互に見ながら、僕は静かに眠りの底へ沈んだ。


 意識を取り戻した僕は、薄暗く誰もいない教室の中央に一人、白いワイシャツと黒の制服ズボン姿で立っていた。黒板の上側にかけてある時計は四時五十五分を指し、窓から射し込む淡い光は夕闇の薄い紫色を伴って、窓際に並ぶ机を照らしている。状況が理解できないまま、僕は秒針が進むのをぼんやりと眺める。

 四時五十九分。突然教室のドアが開き、女性が一人だけ入ってくる。彼女は背中まで長く伸びた艶やかな黒髪を揺らし、僕の方を見て「用事って、何?」と言う。その声を聞いた僕に、一つだけ確信が生まれる。僕はここではない場所で、確かに彼女と会っているのだ。ただ、そこがどんな場所なのかは、その部分だけ記憶が抜かれてしまったみたいに全く思い出せない。そんな確信が生まれた数秒後、この状況は僕が彼女に自分の気持ちを伝える直前なのだと悟る。その閃きは唐突なものだったが、十中八九間違いではない。

 彼女は「どうしたの?」と言い、僕の方へ歩み寄る。はっと我に返った僕は「えっと、一つだけ伝えたいことがあるんです」と、ほとんど思考が停止した状態で言う。薄暗がりの中で、彼女は首をかしげる。「何?」

 秒針の進む音がやけに大きく響く。いつからか高鳴り始めた鼓動が、彼女に聞こえてしまうのではないかと不安になる。「あ、あの」と僕は言う。考えることは許されていない。五秒以内に切り出さなければならない。

 いざ言葉を伝えようとしたとき、その言葉が喉の奥に引っ掛かる。必死に声を出そうとするが、まるで喉の少し上から頑丈な蓋をされているかのように全て押し戻される。少し勇気の欠けた部分に侵食してきた臆病が、言葉の僅かな漏れさえも許さないまま、五秒が経過する。彼女は「何かの悪戯なら、私もう部活に行くね」と言って踵を返す。言葉は喉の奥に引っ掛かったままで、彼女が出ていった教室には秒針の進む音だけが残る。窓の外でドヴォルザークの『新世界より』が五時のチャイムとして響いている。立ち尽くした僕の意識は、誰かにその糸を切られたみたいに突然失われる。


 真っ黒な世界に灯された三本のロウソクが一本だけ、音もなく消えた。その五秒後、一人の心なき人間が漂いながら眠る真っ白な世界には、森を吸い込んだような色のエメラルドが無数に散りばめられた。


 気が付くと、僕は背の高い古びた二つの本棚の間に立っていた。その本棚はまるでビル群のようにいくつも並んでいて、僕は今いる場所がかなり巨大な図書館であることを知る。本のページをめくる音、本と本の擦れ合う音、人の靴音などが静かに響いている。古い本独特の僅かに刺激的な匂いが図書館全体を包み、僕がいる通路の突き当たりのずっと上にある大きな窓からは、陰りのない真っ白な光が注がれている。冬の空を見ているのではないかと錯覚するほど高い丸天井には、少し年季の入った白色のスクリーンのようなものが張られている。僕は完璧に配列された本の背表紙を、右から左へ眺める。天文学に関するぼろぼろの厚い本が、ずっと左の方まで並べられている。

 僕が視線を動かした先に、僕と同じ本棚を見上げる女性がいた。その女性は背中まで長く伸びた艶やかな黒髪を小刻みに揺らしながら、手の届かない場所にある本に向かって背伸びしたり飛び跳ねたりしている。僕は彼女にゆっくりと近付き、「この本ですか?」と彼女に尋ねる。彼女は「すみません」と呟くように言って小さく頭を下げる。風が若草を吹き抜けるような透き通った声だ。僕は彼女が手を伸ばしていた一冊の本を引き抜き、タイトルを見てから彼女に渡す。「この『ザ・ユニバースオブモノクローム』はどんな本なのですか?」と僕は言う。彼女は「気になりますか?」と言って微笑む。「とても」と答えて僕はうなずく。

 彼女はその場で本のページを開き、少し嬉しそうに語り出す。「この本は、真っ黒な世界と真っ白な世界を舞台とする物語です。普段からこの図書館に訪れては読んでいるのですが、何故か今日はいつもの場所になかったので、探すのが大変でした。私はこの物語に登場する男女の変わっていく関係性を自分に重ねて、世界観に浸りながら読んでいます。この物語の魅力的な部分といえばやはり、二つの――」

 彼女は話すのを止める。僕が呆気にとられたような表情で、彼女の話を聞いていたからだろう。それもそのはず、僕はまるで彼女の心に意識を飲み込まれたかのように頭の中が真っ白になっていた。語る彼女の姿が、崩れ行く世界で失った女性の姿を鮮明に思い出させるほど、その女性に酷似していたからだ。それと同時に、僕がいるこの場所は、その崩れ行く世界とは全く別の世界なのではないかと推測する。森を吸い込んだようなエメラルド色の星空が崩れ、別の世界から訪れたような真っ白な太陽に世界が包まれる光景を、僕はこの目で見たのだ。

「どうしたんですか?」と彼女は言う。僕は慌てて「いや、何でもないです。気にしないでください」と言う。少し間を置いて彼女は「そう言われると気になります」と言う。「そんなに気になりますか?」と僕が尋ねると、彼女は「とても」と言って悪戯な笑みを浮かべる。「参ったな」

 どう説明しようか困り果てていると、通路の突き当たりのずっと上にある大きな窓に突如黒いカーテンが引かれ、光が遮られる。いくつも並んだ窓に次々と同じような黒いカーテンが引かれていき、とうとう図書館全体が暗闇に包まれる。「一体何が始まるんだ?」と、僕は一人言のように言う。すると隣にいた彼女が「もしかしてこの図書館に来るのは初めてですか?」と暗闇の中で言う。僕は「ええ、初めてです」と答える。彼女は「この図書館は、星空の図書館と呼ばれています。天井を見上げてみてください」と言う。言われて僕は、少し年季の入った白色のスクリーンが張られていたはずの天井を見上げる。その先に見えたものは、闇の中に無数の光る砂粒をまぶしたような満天の星空だった。何万光年も向こうから降る星の瞬きが、僕の視線を釘付けにする。僕の見ている星の光が、今この瞬間には失われているかもしれないのに、そこに星があると信じることしかできないちっぽけな自分が酷く情けなかった。届くはずのない場所へ闇雲に手を伸ばし、どこかに必ずあると信じる終点を探して先の見えない闇の中を進み続けることが、どれだけ難しいことなのかほんの少しだけわかったような気がする。

 僕は徐に、隣で星空を見上げる彼女に目をやる。崩れていく星空の下で目に焼き付けようとして、涙で滲んだ視界に遮られたはずの女性の横顔が、そこにはあった。宇宙の果ての裏側まで見通すようなその横顔の美しさに、僕は唖然として言う。「綺麗だ」

「この図書館は一日に一度、窓からの光を全て遮断して一時間だけプラネタリウムになります。私もこの星空はとても綺麗だと思います」と彼女は言う。「それはそうと、星空の図書館のプラネタリウムについてご存知なかったようですが、何か別な理由でこの図書館へ?」と彼女は続ける。「この星空の図書館を訪れる方々のほとんどが、プラネタリウムの観賞を目的としているんですよ」

 僕は「特に理由はないです」と答え、「気付いたらここにいた、みたいな」と続ける。すると彼女は「何ですかそれ」とクスクス笑い、「可笑しな人ですね」と言う。星空の下で笑う彼女は、少し寂しそうに見える。僕は「何を言うんですか」と言う。そして「僕は普通の人ですよ」と続ける。彼女はそれを聞いてまた一通り笑い、「普通の人は自分のことを普通の人だなんて呼びませんよ」と言う。笑いの発作が静まった彼女は「もう少し貴方とお話ししていたいです」と言う。「この図書館に小さなレストランが隣接しています。そこでお茶しましょう」と彼女が言う。「いいですね」と僕が言うと、彼女は本を持ったまま踵を返して歩き出す。星空の下、僕は彼女の背中を追う。


 彼女に連れられてレストランに入る。ログハウスのような壁に木目のテーブル、見た目がテーブルと似通った模様の椅子が一つのテーブルにつき四つ、配置されている。小窓が二つある以外に外からの光はなく、オレンジ色の洒落た照明が天井からぶら下がりながら室内を照らす。角のテーブルでは、スーツ姿の二人の男性客が小難しい顔で何やら語り合っている。その他に客の姿は見当たらず、がらんとした店内にはワーグナーの『婚礼の合唱』が静かに響く。

「いらっしゃい」と奥の方から清潔感のある初老の男が顔を出し、しゃがれた声で言う。彼女は「店長、今日はワーグナーなんですね」と言う。店長と呼ばれたその男は「いつものがいいかい?」と彼女に尋ねる。「ドヴォルザークは聴き飽きた」と言い、彼女はすぐ側にあった席に着く。「貴方もどうぞ座って」と彼女は言う。僕は彼女の正面の椅子に座る。

「君はこの店の常連なのですか?」と僕は問う。「小さい頃から毎日のようにここへ通っていました」と彼女はうつむき加減に答え、「それこそ、ドヴォルザークを聴き飽きるほどに」と続ける。店長と呼ばれる男が水の注がれたコップを二つ、僕たちが座るテーブルにそっと置く。そして「貴女がまだ幼かった頃は、昼時になると満席が続いていたんですがねえ」とその男は言う。それに続けて彼女が「お洒落な静けさがこの店の売りだったのに、ドヴォルザークの『新世界より』なんか流すから客が減るんじゃない」と言う。店長と呼ばれる男は紳士的に笑い、「好きなんですよ、この曲がねえ」と言う。彼女は呆れたようにため息をつく。「じゃあ店長、どうして今日はワーグナーなの?」と彼女が問う。店長と呼ばれる男は言う。「そろそろ、この店を閉めようと思っているからですよ」

 彼女は三秒間、まるで氷像のように固まる。そして「どうして閉めちゃうの?」と、身を乗り出して問う。コップの水が揺れる。「私の体も店をやるにはもう限界でしてねえ、後継ぎもいないものですから、閉めざるを得ないと判断しました」と、店長と呼ばれる男は奇妙なほど落ち着いて言う。続けて「ワーグナーのこの曲は、亡き妻の好きだった曲でしてねえ。最後はこの曲と共に、店を閉めたいと思ったわけですよ」と言う。彼女は「後継ぎなら私がやるわよ」と言い、「だから、どうか閉めないで」と、震える声で続ける。店長と呼ばれる男は、諭すような眼差しで彼女を見つめ、「貴女のような人には、もっと幸せになれる場所がきっとあるはずです」と言う。彼女は「この店がその場所よ」と強く言う。テーブルに涙が落ちる。「いいえ、それは違います。貴女にとってここは第二の家であり、また逃げ場でもあります」と、店長と呼ばれる男が言う。「逃げ場にいることが幸せだなんて言わないでください。それはただ自分を正当化しているだけで、本当の幸せではない」

 彼女はうつむいたまま何も言わない。黙って耳を傾けることしかできない自分に、僕は酷く腹を立てる。普通なら、初対面の相手の涙に声をかけるべきではない。相手の事情をほとんど何も知らないで情けをかけるのは、とても失礼なことだからだ。でも彼女の横顔には、まるで太古の惑星が持つ引力のように、とても初対面とは思えないほど僕を魅了してやまないものがある。お節介かどうか、失礼かどうかなんて関係ない。後悔は、伝えたいことを伝えてからするべきだ。

 訪れたしばしの沈黙を、僕は破る。「この世界のことはよくわからないけれど、幸せなら僕にだってわかる。だから僕が、君の本当の幸せを一緒に探しましょう」

 彼女は「私の本当の幸せなんて普通の人にはわからない」と震える細い声で言う。「君は僕を普通の人だと思って、このレストランに誘ったのですか?」 と、僕は彼女に問う。四秒の間の後、彼女はゆっくりと顔を上げて僕の目を見つめる。「可笑しな人」と彼女は言う。小さくぎこちなく微笑んだように見えた彼女の頬には、涙の跡が光る。


 それから一時間ほどそのレストランで話し、歳の近さも相まってすぐに打ち解け合った僕たちは、丁度話し合いを終えた様子のスーツ姿の二人組に続くように店を出る。プラネタリウムが終了した図書館に再び入り、彼女は持っていた本を「いつもはここにあるのよ」と言って返却する。

 図書館を出ると、道路脇にはいくつものタンポポが咲き、生い茂る雑草の上を一匹のモンシロチョウが不規則に飛ぶ。図書館を囲む林にはそよ風が流れ込み、葉の擦れる音が聞こえる。降り注ぐ燦然とした木漏れ日が、斑状の光の模様を地面に描く。そこは僕が一度も見たことのない場所だった。

「行こうか」と僕は言い、彼女に左手を差し出す。「うん」と言って、彼女は右手を僕の左手に添える。手の繋がれた瞬間、僕はデジャヴに似た感覚を覚える。ただその感覚はあまりに薄弱で、正体を突き止めようとする前にはもう僕の元を去っていた。歩き出した僕は彼女に「ここはどんな世界なんだい?」と問う。彼女は少し考えて、「それはどういうこと?」と問い返す。僕は「君がこの世界について思うこと、感じていることを教えてほしいんだ」と言う。彼女はまた少し考える。「いざ質問されてみると、すぐには答えられないものね。自分の住む世界についてだなんて」と、歩きながら彼女は言う。「じゃあ、この林を抜けた先には何があるんだい?」 と僕は言う。彼女は「私の嫌いな町があるわ」と言う。「君はこの町が嫌いなのかい?」と僕は問う。「とても嫌いよ。この町は、忘れられない思い出が詰まった、一秒でも早く忘れたい町」と彼女は言う。

 林を抜けると、 今いる場所からは終端の見えない下り坂の道路があった。僕は彼女と手を繋いだまま、広い歩道を下る。道端に植えられたチューリップは、雲のない空を駆け抜ける風に揺れている。そこにある全てが自ら光り輝いているとさえ思えるくらいの眩しい空気に包まれて、僕は彼女と並んで歩く。「とても綺麗な町だけど、一体何故君はこの町を嫌いになったんだい?」と僕は問う。彼女は何かを言おうとしたが、結局何も言わなかった。そのまましばらく沈黙が続き、僕が違う話題を切り出そうかと思案していると、突然彼女が言った。「この町が本当はとても穢れた町だからよ。人も物も、それらの持つ心も」

 少しの間を置いて、「この町は穢れているのかい?」と僕は彼女を見て問う。彼女は「人は皆いつまでも過去にすがり、物は全て私たち人間の暗い過去を背負ってそこにあるのよ」と言う。そして「それらと対面していると、時折穢れた心が顔を出すの」と続ける。「この町で綺麗なのは、あのプラネタリウムと店長だけよ」

 坂の中腹で、彼女が不意に足を止める。「この角を曲がろう」と彼女は言う。僕は「この先には何があるんだい?」と言う。彼女は「大きな黒い欲望と、小さな白い希望があるわ」と答える。彼女の言っていることがよくわからなかった僕は、とりあえず彼女に付いていくことにする。


 三十分以上歩き続けて、ようやく彼女は立ち止まる。太陽は少し傾いているが、まだ沈む気配を見せない。「さあ、着いたわよ」と彼女が指で示したものは、汚れの一つも見当たらない真っ白な一軒家だった。芝生が完璧に整備された庭では家庭菜園が行われ、 トマトやインゲン、サニーレタスなどが栽培されている。そのどれもが瑞々しく、生命力溢れる新鮮さを孕んでいる。僕は「この白い家は、誰の家なんだい?」と彼女の背中に問う。彼女は振り返らずに「決まっているじゃない」と言い、「私の家よ」と言って玄関の白いドアを開ける。

 彼女の家の中は森のようにひっそりと静まり返り、ワックスで丁寧に磨かれたフローリングの上を僕たちが歩く音以外、一切の物音がない。「お家の方は誰かいないのかい?」と僕は彼女の背中に問う。彼女はリビングに続くドアに手をかけながら、「日付が変わるまで誰も帰ってこないわよ」と言う。彼女は「それより貴方、麦茶とオレンジジュースならどっちが好き?」と言う。僕は「麦茶が好き」と答える。それを聞いて彼女は「じゃあそこで少し待ってて」と言い、ドアを開けてその向こうに消える。閉め損ねた僅かなドアの隙間からリビングを覗くと、女性の黒い下着や割れた陶器の破片のようなものが散乱している。彼女の言った穢れというものが、その瞬間になってようやく実体を成して僕に迫ってくる。それと同時に、彼女が僕をリビングではなく廊下で待たせている理由を悟り、彼女には知らないふりを突き通そうと決める。

 銀のトレイに麦茶の注がれたコップを二つ乗せて彼女は戻り、「行こう」と言って手すり付きの階段を上る。僕は黙って彼女を追う。

 彼女は塞がれた両手で器用にドアを開け、部屋に入る。「お邪魔します」と小さく言って僕も続く。彼女は部屋の中央の低いテーブルに銀のトレイを置き、白いベッドに腰かける。閉じたカーテンの下から光が射し、まるで夕暮れ時のような暗さが部屋を包む。ほんのりとバニラの香りがする彼女の部屋には、勉強机やピンクのカラーボックス、黒い枠の立ち見鏡が置かれ、白い壁には学校の制服がかけられている。「こっちに来て休もう」と言って彼女は、座っているベッドを軽く叩く。僕はさすがに抵抗して「他人のベッドに座るのは気が引けるよ」と言う。一瞬顔をしかめたように見えた彼女は立ち上がり、「大丈夫、私そういうの気にしないから」と言って僕の腕をつかんで強引にベッドへ座らせる。麦茶の注がれたコップに沿って水滴が落ち、氷が溶けてカランという音を立てる。彼女は「緊張してる?」と言って僕の腕に体を押し付ける。僕は「さっきから、少し変だよ?」と言う。彼女は惚けた顔で「どこが?」と言う。今にも失われてしまいそうな理性を保とうと、僕は必死にこの町のことについて考える。しかし、僕が知るこの町のことには全て彼女が関わっていて、どうしても頭から彼女を消し去ることができない。

 追い討ちをかけるように、彼女が上着を脱ぎ始める。そして「いいんだよ。無理しなくて」と言う。その言葉の意味を汲み取ってしまった僕は、懸命に保っていた理性を跡形もなく失う。

 考えるのを止めた僕は、一糸まとわぬ彼女と重なる。上気した彼女の頬と僕の頬が密着し、お互いがお互いの熱を感じ合う。崩壊した理性が混ざり合い、人間一人では成し得ない新たな極地へと至る。それはたった一人の未完成な言葉では表し難い、言葉を超越した感情だった。僕の耳元で彼女が囁くように言う。「私、今頭の中が真っ白なの。でもその真っ白な世界には、緑色の宝石がどこまでも散りばめられていて、そしてそこには貴方もいるのよ」

 その言葉の真意が何なのか、僕には微塵もわからなかった。今の僕には、ただ目の前の出来事に集中し、この瞬間を一生忘れないように、今ある感情を肉体に刻み込むことしかできない。「とても綺麗な世界だわ。どこまでも白くて、この町とはまるで正反対だもの」と彼女は上機嫌に言う。白と黒が決して混じり合うことのない特別な存在であるなら、黒を白く染めればいいのだ。

「私のこと、どう思ってる?」と、不意に彼女が言う。僕に一瞬だけ理性が戻る。こんなときに限って、気の利いた言い回しが思い付かない。散々迷った挙げ句、「君はとても綺麗な女性だと思う」と僕は言う。彼女は少し悲しそうな顔をする。二秒後、「ありがとう」と彼女が言う。

 その言葉の直後、僕は唐突に意識を失う。


 真っ黒な世界に灯されたロウソクが、また一本だけ音もなく消え、残るロウソクは一本だけになった。その二秒後、一人の心なき人間が漂いながら眠る真っ白な世界には、広大無辺の草原が、無数のエメラルドとは反対の位置に出現した。


 意識の戻った僕は、藍色の浴衣姿でコンビニの真ん中に立っていた。ドリンクが保冷されてある場所の上の時計は六時五十二分を指し、窓の外は太陽が沈んで少し暗くなっている。客は皆僕と同じような浴衣姿で、親子連れやカップルが幸せそうに会話している。

 人が出入り口を通り抜けたときに鳴る電子音が響き、桃色の浴衣を着た女性が入店する。後頭部で黒髪をまとめたその女性は、僕を見つけるや否や大きく手を振る。

「お待たせ」と彼女は言う。状況が理解できていない僕が何も言わないままでいると、「どうしたの?」と彼女が言い、「あまりの可愛さに困惑しちゃった?」と浴衣の袖を揺らす。僕は「え、うん」と力なく返答をする。それを聞いて彼女は「もう、しっかりしてよね」と言って僕の腕を叩く。「行こ」と言って、彼女は右手を僕に差し出す。彼女の手を握り、僕たちはコンビニを出る。

 コンビニから道路を挟んで反対側、大きな公園のある方には、明るく照らされた騒がしい人込みができている。公園に続々と入っていく人に続くように、僕たちは横断歩道を渡ってアーチ型の車止めの間を抜ける。石のタイルが敷き詰められた地面を歩く音は、近付くほど大きくなる人々の声や的屋の露店で油が焼ける音に掻き消される。それと同時に、いろんな食べ物の匂いが漂い出して僕の空腹を煽る。的屋の露店が鮮やかに立ち並んでいる場所より少し低くなったところには河川敷が広がり、人々が思い思いの格好でくつろいでいる。

「お腹空いたね」と言う彼女の声が、他の音に紛れてようやく聞こえる。「何か食べない?」と今度は声を強めて彼女が言う。僕は「そうだね」と言い、的屋の露店がある方へ彼女の手を引いていく。

 射的や金魚すくい、お面売りに玩具売りなど、様々な露店が立ち並ぶ中、彼女はりんご飴を前にして立ち止まる。「これ食べる」と彼女は言う。僕は「奢るよ」と言って彼女と手を離し、右ポケットに入っていた財布を取り出す。彼女がじっと見つめるりんご飴を僕が買い、彼女に渡す。「ありがと」と言った彼女とまた手を繋ぎ、今度は少しゆっくりと歩く。彼女はまるで幼い子供のように、露店で売られているものに夢中になっている。不意に彼女は、たこ焼き売りの露店をりんご飴で指し示す。彼女は「あれも食べる」と言う。「僕も食べたい」と僕は言う。「あげない」と彼女は言う。僕は「じゃあ買ってあげるよ」と言う。彼女はしてやったりといった表情で「じゃあ二人で食べる」と言う。

 たこ焼きの袋を僕が持ち、またゆっくり歩き出す。「ちょっと座ろうか」と僕が言うと、彼女は何も言わずにうなずく。僕たちは露店とは少し離れたところの土手に座り、繋いでいた手を離す。彼女のりんご飴はまだだいぶ残っている。明かりが少ないせいで、彼女の顔はよく見えない。彼女は「私がこれ食べ終わるまで、たこ焼き食べちゃ駄目だからね」と言う。僕は「わかってるよ」と言う。それから僕たちは無言のまま河川敷を眺め、月を反射して光る河を眺める。

「あのさ」と僕は無意識に呟く。彼女は「何?」と言う。その無意識は僕を何秒か混乱させたが、今言うべきことを僕はすぐに悟る。「えっと」と僕は言う。彼女は「どうしたのよ」と言う。どこかで味わった、必死に出そうとする声を全て押し戻されるような感覚が蘇る。まだ少し、勇気が欠けている。彼女は「たこ焼き食べたいの?」と言う。僕は「食べたいけど、そうじゃないんだ」と答える。「じゃあ何よ?」と彼女が言う。「僕は、君のことが」と僕が言ったのと同時に、僕たちの後ろを小さな子供が声を上げて駆けていく。彼女は「聞こえなかった。もう一回」と言う。少し間を置いて再び「僕は、君のことが、君が」と言う。今なら言える。今しか言えないのだ。

 そう決意した一秒後、次の言葉を伝えようとしたとき、夜空に細く長い音が響く。その音が止んだかと思うと、次の瞬間には森を吸い込んだようなエメラルド色の花火が弾け、黒い空を彩る。それを合図にするかのように、数多の爆音を伴って無数の花火が続々と弾け飛んでいく。花火が上がる度に観衆の声が大きくなっていき、僕たちのいる土手や河川敷にまで人々が群れを成していく。花火に照らされる彼女の額にはうっすらと汗が滲み、鮮やかな光の数々を反射している。その横顔は、崩れ行く星空の下で僕が目に焼き付けようとして、涙で滲む視界に遮られた女性の横顔そのものだった。その五秒後、小さく細く呟くように、「好きだ」と僕は言う。しかしその言葉は、弾ける花火の爆音と盛り上がりのピークにある観衆の声に揉み消され、彼女の耳に届いていない。

 その横顔に見とれる僕は、最後の大きな花火が上がると同時に意識を失う。


 真っ黒な世界に灯された最後のロウソクが音もなく消えた。一秒後、一人の心なき人間が漂いながら眠る真っ白な世界には、心を宿す許可が下りた。カウントダウンは終わったのだ。


 永遠に燃える炎さえ吹き消してしまうような強風に、思わず僕は目を覚ます。そこは森を吸い込んだような色のエメラルドが無数に散りばめられ、どこまでも果てしなく続く草原が広がる真っ白な世界だった。突風に煽られて草原が激しく揺れ、僕は風に飛ばされないように必死に草原に食らい付く。目の前には『宇宙再構成中』という角張ったデジタル文字と、回転するグレーの輪が表示されている。

 少しずつ風は弱まっていき、一端完全に止んだかと思うと、今度は世界が真っ黒な闇に包まれる。空は森を吸い込んだようなエメラルド色の星空となり、秘密を守るために固く閉じた口のように真っ直ぐな地平線が、草原と星空を隔てる。いつの間にか『宇宙再構成中』という角張ったデジタル文字と回転するグレーの輪は消えていた。

 ふと、僕の背後から草を踏む音が聞こえてくる。振り返ると、髪を長く伸ばした女性がこちらへ向かって歩いていた。その女性は僕の隣に立つと、優しく僕の左手を握る。彼女の右手には、確かな思い出が詰まっているのが僕にはわかる。背中まで長く伸びた艶やかな黒髪が、再び吹き始めた風になびく。

 一際強い一陣の風が吹くと、 地平線からは、別の世界から訪れたのではないかと思うほど真っ白な太陽が顔を出す。森を吸い込んだようなエメラルド色の星空と、闇の中の草原を隔てる地平線は、太陽の眩しさに白く縁取られていく。

 左側に立つ彼女は見つめる太陽に照らされ、徐々に色彩を手に入れていく。

 繋がれた彼女の右手と僕の左手が、海を凝縮したようなサファイア色に輝いて熱を持ち出す。すると、森を吸い込んだようなエメラルド色の星空が、まるでパズルのピースが一つずつ外れていくかのように崩れ始める。そのピースは地平線に食べられるように消え、森を吸い込んだようなエメラルド色の星空にはぽっかりと歪な形の穴が開く。その穴の先には、底知れない漆黒が広がっている。

 次々に崩れていく星空の下で、僕は彼女の横顔を必死に目に焼き付けようとする。しかし、涙で滲んだ視界は彼女の輪郭を明確に捉えることができない。今の僕には、彼女と強く手を繋いでいることしか許されていない。

 彼女の頬に一筋の光の流れが見えると同時に、世界は太陽の真っ白な光に包まれる。次の瞬間、森を吸い込んだようなエメラルド色の星空や草原、地平線といったこの世界を形作るもの全てが次々に崩れ、僕は意識を失った。


 地鳴りのような轟音を立てて全てが崩れた世界は、どこまでも虚無が広がる真っ黒な世界に回帰した。僅かな光の存在も許されず、心の形さえも見失ってしまうほどの真っ黒な世界だ。

 その百万年後、何もなかった真っ黒な世界にロウソクが一本だけ灯された。ラストチャンスが与えられたのだ。


 何か声が聞こえたような気がして、僕はゆっくりと目を覚ます。周囲は真っ白で何もない。床も天井も区別がつかず、その白がどこまで続いているのかわからない。あるのは自分の体だけで、そこにいると気が狂ってしまうのではないかと思うほど、世界は限りなく白かった。何らかの因果によって僕は心を持つことを許されておらず、この真っ白な世界を力なく漂っていることしかできない。

 すると突然、目の前に回転するグレーの輪が浮かび上がる。恐らく、この真っ白な世界が初めて手に入れた色彩だろう。そのまま二十秒ほど回転し続けたグレーの輪の下に、角張ったデジタル文字が一文字ずつ表示されていく。真っ白な世界に不気味に浮かんだ『宇宙再構成中』という文字と回転するグレーの輪を交互に見ながら、僕は静かに眠りの底へ沈んだ。


 意識を取り戻した僕は、薄暗く誰もいない教室の中央に一人、白いワイシャツと黒の制服ズボンを着て立っていた。黒板の上側にかけてある時計は四時五十五分を指し、窓から射し込む淡い光は夕闇の薄い紫色を伴って、窓際に並ぶ机を照らしている。この状況はうっすらではあるが僕の記憶に残されている。四時五十九分になると教室のドアが開き、女性が一人入ってくるはずだ。

 四時五十九分。思った通り教室のドアが開き、女性が一人だけ入ってくる。彼女は背中まで長く伸びた艶やかな黒髪を揺らし、僕の方を見て「用事って、何?」と言う。僕は彼女に気持ちを伝えるべくして、この世界に再び産み落とされたのだ。もう迷わない。

 彼女は「どうしたの?」と言い、僕の方へ歩み寄る。それを聞いた僕は「一つだけ伝えたいことがあるんです」と、自分の言葉で言う。薄暗がりの中で、彼女は首をかしげる。「何?」

 秒針の進む音がやけに大きく響く。いつからか高鳴り始めた鼓動が、彼女に聞こえてしまうのではないかと不安になる。何度も犯した過ちをここで全て帳消しにできるのなら、僕にはどんなことだってできるはずだ。僕は決意する。

 いざ言葉を伝えようとしたとき、僕の脳に虚無を締め付けるような感覚が走る。それより少し遅れて、彼女が僕ではない別の男性と手を繋いで歩くシーンが脳内で再生される。彼はとても穢れた人間で、伝えるべきときに伝えるべきことを伝えられる強さを持っているのだと、何故か僕は知っている。彼は背後から僕に言う。「僕と君は正反対だ。だから僕は君のことがよくわかるし、君も僕のことがよくわかるだろう。どちらが彼女の右手を握るべきか、君には考えなくてもわかる」

 彼は続ける。「あの本、『ザ・ユニバースオブモノクローム』は僕と彼女の思い出の本だ。だから僕はあの本を、僕と彼女が最初に出会った場所に返したのに、君はそれをどこか知らない場所に隠したんだ」

 少しの沈黙の後「その罪滅ぼしだ。彼女は僕の好きにさせてもらうよ」と彼は言い、僕の背後から消える。

 彼の声が僕の脳から消えたときにはもう、彼女は教室にはいなかった。五時を指す黒板の上の時計は、その秒針が進むのを止めている。窓の外でワーグナーの『婚礼の合唱』が五時のチャイムとして響いている。立ち尽くした僕の意識は、誰かにその糸を切られたみたいに突然失われる。


 真っ黒な世界に灯された一本のロウソクが、切なく、寂しげに消えた。そのしばらく後、一人の心なき人間が漂いながら眠る真っ白な世界には、背中まで長く伸びた艶やかな黒髪を持つ女性と、その女性と手を繋ぐもう一人の人間が現れた。もう一人の人間は心なき人間に心を与え、白を擦り付けた。また彼は、背中まで長く伸びた艶やかな黒髪を持つ女性に黒を擦り付けた。

 その瞬間、白と黒はお互いに強く激しく拒絶し合い、光速でその距離を広げていった。


 その場所から百万光年離れたところで、僕はようやく止まった。遠ざかる彼女を見失ったときから溢れ出した涙は、未だ止まる気配を見せない。これは、伝えるべきときに伝えるべきことを伝えられなかった僕への、僕自身から贈られる罰なのだ。

 僕は必死に彼女を呼び、数え切れないほどある星の中から彼女を見つけ出そうと試みる。けれどその行為は限りなく不可能に近いものだということを、僕は頭の片隅で理解していた。僕の声だけが、行き場を失った重力のように執拗に耳の奥へと居座る。

 それから幾星霜、宇宙に終焉が訪れるまで、僕が再び彼女に出会うことはなかった。

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