第六話「そう、むしろ―――清々しい」
薫は、スイッチが切れたように眠ってしまった緋音を見下ろしていた。
寝息すらも聞こえない。一気に熟睡したようだ。自分の腕には枕と一枚の掛け布。薫自身はあまり眠気は感じていない。
眠気だけではない。今は緋音が眠っている豪華なベッドで目覚めてからずっと、思考や感情が動かない。
白と黒と灰色に霞んでいる。
薫はなんとなく進んだ大学の、なんとなく選んだ学部で無事に単位を取得し、就職活動をしていた。なんとなく行った説明会でなんとなく良いなと思った会社の面接を受け、いくつか内定を貰っていた。それなりに学力は高かったし、愛想も悪くはなく、子どもの頃から教師などの大人に好かれるタイプの子どもだった。
同い年の敵がいたこともない。いじめに遭ったこともない。多少、腹が立つ悪戯をされたことはあっても今や笑い話だ。子ども時代も思春期も成人後も、なんとなくつるんで遊ぶ同性の友人がおり、何人かの異性とも交際した。
人と過ごすのは楽しかった。友人と飲みに行き、バカ騒ぎした。彼女とテーマパークに行き、夜を共に過ごした。一人の時間も好きだった。ベストセラーの小説を読み、話題の漫画やアニメを観て、興行成績一位の映画を週末に見る。
楽しかった。
幸せだった。
失いたくなかった。
永遠に続いて欲しいと、考えるともなく願っていた、何ものにも替えがたい素晴らしい日々だった。
けれど、今はその全てがモノクロだ。
あんなに輝いていたはずなのに。
なのになぜ、自分は何も感じないのだろう?
緋音は精神的なショックによるものだと思っているようだが、果たして本当にそうなのだろうか?
彼女は怒った方がいいと言った。
けれど、どうしても自分の中に怒りが見つからない。
客観的に見ても、自分はパニックになって喚き散らしたり、運命を嘆いて泣き叫んだり、今一番近くにいる相手に怒りをぶつけて暴れたりするのが普通なのではないかと思う。
でも、本当に何もない。
そう、むしろ―――清々しい。
薫は掛け布を巻きつけ、枕を抱えるとベッドの足元の床に座り込んだ。カーペットもふかふかで、裸足で歩きまわりたいような良い触り心地だ。
ふと首を伸ばして置時計を見る。午前8時。通勤通学ラッシュの時間。
だが、自分にはもう関係ない。
薫はうっすら笑うと、目を閉じた。心地好い眠気が全身を包む。時計の針の音をいくつか数えているうち、薫はいつのまにか眠りについた。