第二話「誰ですかそれ」
緋音が連れてこられたのは、市内でも最上級のホテル「オルテンシア」。上流階級の人間だけでなく、俳優などの多くの著名人も宿泊することがあるという。
「お父さん、なにをさせようっていうんです?」
警戒心も露わに訊くと、泰久はあでやかに笑む。
「子育てだよ」
「はい?」
VIP専用のエレベーターで最上階のロイヤルスイートまで一気に上がる。宮殿を思わせる精緻で派手な内装は、ここが日本であることを忘れさせる。足首が埋まるほどの絨毯は、吸血鬼でなくとも無音で歩けるだろう。緋音は訪れるたびにディズニーアニメの「美女と野獣」を思い浮かべる。その辺から喋る燭台やポットが陽気に出てこないだろうか。
メルヘンなことを考えているうちに、豪奢な大扉の前に辿り着く。扉の脇には銀髪の老紳士。
縁なし眼鏡の下の菫色の瞳が魅力的な美老人は、緋音の“祖母”の執事だ。
「お待ちしておりました、金刃様、待鳥様」
「ヨハン様、こんばんは。おかわりないですか?」
「はい、お陰さまで」
たおやかに微笑み、腰を折る老執事。
「桜坂様は、一度意識が戻られたとのことです」
「誰ですかそれ」
「お前が拾ってきた“親無し”だよ」
「カンパニュラは面白がってずっと観察しておいでです」
「でしょうねえ…」
「玩具にされるだろうな」
老執事が少し呆れたよう笑うと、緋音はげんなり、泰久は心底楽しそうに笑みを返す。ヨハンはすっと姿勢を正して、室内に呼びかけた。
「マイ・レディ、金刃様と待鳥様がいらっしゃいましたよ」
「うむ、入るが良い」
少女の声が答える。ヨハンが扉を開け、泰久は無駄に堂々と、緋音は軽く頭を下げてから扉をくぐった。
室内も、とても豪華だ。映画かドラマの中にしかないと思われた光景は現実に存在するのだと、緋音は何度来ても感心している。
絶対に宿泊できる人数よりもソファや椅子の数が多い。上流階級というのは、一時間ごとに座る場所を変える趣味でもあるのだろうか。呆れと感嘆が入り混じる眼差しをスイートルームの全体にぐるりと向け――突如現れた金髪の美少女が緋音の胸に顔を埋めた。
緩く波打つ黄金の髪、翡翠をそのまま閉じ込めたような大きな瞳、雪白の肌、薔薇色の頬と仄かな桃色の唇。見た目13歳ぐらいの天使のような美少女こそ、緋音の“祖母”カンパニュラ・ナイトウォーカー。
これでも深緋市で鬼柳院椿に次ぐ長老級の吸血鬼だ。カンパニュラは子猫のように緋音に顔をすりつける。
「緋音からは良い匂いがするのう。煙草と酒と…コーヒーの匂いもする」
完璧な発音の日本語だが、言葉遣いが実に怪しい。放っておくといつまでもすりすりされるので、緋音はカンパニュラの細い腰を掴んで高い高いするように引っぺがす。
「お久しぶりです、カンパニュラ様」
「うむ。元気そうじゃの、緋音。あと泰久も」
「ついでか。別に構わんが。それより緋音、なぜカンパニュラが過剰なスキンシップをしても怒らないのだ」
「カンパニュラ様は女性で、しかも見た目は完璧な美少女だから。かわいいは正義、お父さんのエロさは悪」
「俺の色気は犯罪だと?! そんなに褒めるな」
「褒めてねえよ、マジ灰になれよお前」
「泰久のエロさは心臓に悪いからのう」
カンパニュラは身をよじり、緋音の首に華奢な両腕を回して、こてんと頭をのっけて微笑んだ。緋音は右腕一本で平然と抱きとめる。
「さて血族の楽しいじゃれあいはこれくらいにして、本題じゃな」
緋音のセミロングの黒髪を小さな手の白い指先で弄びながら、カンパニュラは顎で奥の部屋を指す。凄い、としか言いようのない両開きの扉――寝室だ。
「哀れな“親無し”桜坂薫は、覚醒と悪夢を繰り返しておるよ」
「名前まで分かってるんですね」
「妾は依頼しただけじゃ。人間の探偵に頼んだのじゃよ。吸血鬼のことなら“百眼”のアルゴスじゃが、人間の事は人間に頼むのが一番。ヨハンの紅茶を飲んでるうちに調べがついたわ」
素なのかわざとか不明だが、彼女の照れ笑いは赤子や子猫、子犬の愛らしさがある。思わず頬が緩んでしまうのだ。
「なら他にも色々分かっているんですよね? 一体私はなんのために呼ばれたんですか? お父さんは子育てとかほざいてたんですが」
「そのとおりじゃ。そなたに頼みたいのは子育て。桜坂薫を立派な吸血鬼に育て上げよ」